特に、歴史上は羽柴秀吉の大返しで頓挫しましたが、これさえなければ成功していたのか、そもそもこの大返しは当然に想定しておくべきようなものだったのでしょうか?
また、もしこのプロジェクトがここで頓挫していなければその後はどのようになったと思われますか?
①光秀のクーデターの成功の見込み
事実上は無かっただろうと思います。要するにそのときには、信長は北陸方面、関東方面、中国方面、四国方面へ軍勢を派遣していた訳であり、全軍の中で光秀の管掌する1万人前後の軍勢は僅かなパーセンテージでしかありません。当然、柴田、前田、信勝、信孝、丹羽、滝川、羽柴、らの司令官は武力を抱えて前線に出ています。彼らと何らのコンセンサスが取れていなかったのであれば、そもそも最初から、わずか1万人前後の戦力では太刀打ちは不可能だっただろうと。
②大返しが無ければ成功か?。大返しを想定すべきだったか?
大返し自体は、予想を超えての早期進撃だったと思います。しかし、大返しが無ければ成功していたのか?と言いますと、その成功の姿は見えませんね。要するに①に記述した件をどのようにまとめるのか、協力者が無い光秀にとっては、大返しが無くても成功しない作戦だった筈です。
大返しを想定すべきだったか?については、当然想定すべきだったでしょうね。戦場は不測の事態ばかりな訳ですから。すばやく帰ってくる、帰ろうとする奴がいてもだいたい不思議ではない訳です。想定ぐらいしてもバチはあたりません。
ただ、全体の作戦としてその足場の弱さと言いますか、なんと言いますか、プランニングの悪さは有名ですので。。。ゆえに怨恨かと言われるのですが。
③山崎の合戦が無ければどうなっていたか?
要するに信長の軍勢を分割して率いている各前線諸将にしてみれば、大部隊を擁しているし、出張先に自らの人脈も擁している。。。諸将はそれぞれ、何も光秀の下風に立つ理由は無く、むしろ、光秀を討ち倒して名を挙げ、織田全軍に対して強い立場に立つ事を望んだことでしょう。ですので、山崎の合戦が無かったとしても、独自では僅か1万前後の兵力しか持たない光秀は各方面からの攻撃を受けて敗れていたでしょうね。
④まとめ
現代社会では、明智光秀が何故本能寺の変を引き起こしたのか?がしばしば話題になります。話題になる理由が、やはり質問者さんと同様、何故に、このような戦いを起こさねばならなかったのか?、そもそも勝利の見込みはあったのか?、どういうことなのか?、というような疑問を、現代の万人が抱く部分があるからでしょうね。。。
ただ、例えば、徳川家康の祖父も、戦場で直下の部下によって衝動的忙殺をされたりしていますから、そもそも当時、このような例は数多く、よって、当時の秀吉や家康や勝家その他の将にとってはですが、光秀の動機や、見通しや、作戦内容、どの程度の戦略だったか、等については、あまり興味がある話ではなかったのかもしれませんね(ここは個人的見解ですが)。
歴史にIFは禁物です。答えはありません。
では面白くありませんので、私なりの推測です。
まず、光秀が娘の嫁ぎ先である細川家の支援すら受けられなかった点から間違いなく光秀の時代は大返しがなくても短命であったことは間違いありません。少なくとも天下統一ができる器ではなかったということです。
じゃぁ誰が天下を統一できたかになりますが、東北の伊達、北陸の上杉、織田の誰か、中国の長宗我部、関東の北条、東海の徳川、九州の大友・島津。
候補はこの程度にしておきましょう。
この中で、全国統一できる程の政治手腕を持っていた武将とすれば、やはり豊臣、徳川そして分業制を確立していた毛利、九州の覇者島津に絞られると思われます。大返しがなかったとしたら、豊臣は織田家の勢力争いの中で潰れたであろうと断定できますので、ここも除外。
結局、毛利が息を吹き返して日本を統一。ただし、日本史とは2~30年ずれます。
そして19世紀後半には勝海舟を中心に倒幕運動が起こり、高杉晋作や伊藤博文といった幕府の旗本が沖縄に新政府を作るといって日本を出てといった幕末は役者が総入れ替えになっていたのではないでしょうか。
毛利説、面白いですね。ありがとうございます。
個人的にはこの時期の毛利にはすでに全国的な覇権争いに参加する気概はなく、復活は難しいようにも思えるのですが、よろしければ毛利を推した理由もお聞かせ下さい。
三日天下 ~ 空位七日、政務十一日 ~
天下を取るチャンスは(自民党総裁選挙と同じく)一度しかなくて、
信長にとっての桶狭間のように、勝敗は時の運だったと思います。
もしも成功していれば、という空想は、とても魅力的ですね。
もともとは、類型的な仇役だった明智光秀のイメージは、司馬遼太郎
《国取り物語 1963》で再発掘され、大河ドラマ《国取り物語 1973 NHK》
で、近藤正臣が近代的なニヒリズムのもとに、抑制的に好演しました。
私見ですが、冷酷な逆臣から、偏執的な妄想にかりたてられたとする
人物像を経て、政治力学に流されていく運命に、視点が移動しています。
以下は、わたしの過去はてなの、パロディ回答&コメントです。
2005-12-24 11:04:15 by goldwell
http://q.hatena.ne.jp/1134725325#a457863
続・日本史の改竄
2006-06-04 08:36:06 by zin20
http://q.hatena.ne.jp/1149377765#a543528
同工異曲ですが……。
明智光秀がキリシタンを容認し、諸藩にカトリック教会が建つ。
日本列島に“ミレーの晩鐘”のような風景が出現する。
キリスト教の同盟国家として、のちの原爆投下を免れる。
(初めて、いるかがついたので、お礼にかえて一言)
織田信長が「本能寺の変」で死ななかった仮定で、わたしの設定は、
死にそこなって降伏し、佐渡島に流された、というものです。
光秀から昭和まで行きますか。素敵です(笑)。
「if」を考えるのは面白いですね。
さらに本能寺に関しては「if」だけでなく、プロジェクトとしてはどうだったのかな、という失敗学みたいな観点も興味がそそられるところです。
2度目の回答となりますが、少々私の個人的考えを。。。
そもそも光秀には「主を捨て殺しにして出世しようとする」癖があるように思うんですね。私個人的な直感的考えですが。
・光秀は、主朝倉義景を捨てて足利義秋に仕えて結果、信長と共に義景を残忍に殺しています。
・光秀は、主足利義秋を捨てて信長に仕えて結果、信長と共に義秋を完全に破滅させています。
要するに光秀とは、「主人を見限って、主人に対抗する勢力に乗り換えて、その対抗する勢力と共に、元の主人を滅ぼす癖のある男」。。。であるように推測した事があります。私の推測ですが。
通常「ピンチをチャンスに変える」という欺瞞があると思うんですね。人間の陥りやすい失策の例としてですが。例えば光秀ですね。信長によって窮地に陥ること必定の状況だった。そこで光秀は困りながらもピンチをチャンスに転換させるという建前を採ります。それが本能寺ではないでしょうか。建前と本音で言えば、本音では「戦力的にはゼロなので出来ない相談」なのですね。しかし往々にして窮鼠猫を咬むでは理論的戦術は棄却されるものなのかもしれませんね。
そこで、当時実際、公家が光秀をそそのかした可能性はあると思うのですが、今度は信長を捨てて(殺して)公家との協調路線へ転換し、その路線において旧信長勢力を併呑しよう、と。例の転換期において主人を捨てて対抗勢力の下につき、対抗勢力と共に旧主を滅ぼそうという光秀の癖です。
----------------------------------
時を遡りますが
上記の光秀の旧主(義景・義秋)に対する行動について、長い間じっと、猜疑心をもって、この点(忠誠心・裏切りの可能性)に着目して見ていた人間がいると思うんですね。それが信長だったのではないでしょうか。自分が義景や義秋を殺したり破滅させたりしていますが、その傍らには常に光秀が平然と協力しながら立っているわけですね。その光秀を見ていた信長は、光秀を信用出来る男だと思っていたかどうかですね。私個人的には、光秀を排斥しようとする信長の心情が伝わってくるように思えます。
本能寺の変の時期ですが、要するに武田領を完全に併呑した直後なんですね。家康に至っては、領国を捨ててはるばる安土まで軍勢も連れずお礼の旅行に来ている。私の考えですが、家康と信長の長い旅は、武田征伐の成功を以って、一旦完了したのですね。近畿北陸・濃尾平野・三河遠江駿河・甲斐信濃・を完全に本領にした状態。。。これはもはや毛利も上杉も北条も、誰も対抗できない戦力です。天下は決まったと言えます。そこで、信長は外と戦う事よりも内部粛清を始めました。筆頭重臣林親子の放逐ですね。次が光秀という訳なんですね。
ここで伝来の筆頭重臣林なんですが、信長の創業時に叛いている人間なんですね。腹黒い叛き方をしている。これに比べれば、前田利家も柴田勝家も秀吉も丹羽も、歴史的に随分、まったくもって、けなげな男なんですね。いつも面をつき合わせて人間関係していた光秀にとって、林の次に自分の身がどうなるのか、切迫していても常識であるかのように自明の理だったのではないかと思います。
したがって、ここで出てくる光秀の行動は、理論的整合の無い戦術、勝利の客観性が完全に欠けた戦術、であっても何ら不思議は無いのですね。「光秀ほどの男が何故。。。」という訳でもないのではないかと。「ただ黙って殺されるのか、それとも、切り死にするのか、、、ワシは戦うつもりじゃ」と光秀が重臣に言えば、重臣は「私も殿と共に死にます」と言います。この経緯には、そもそも勝算が存在しない訳ですね、やはり。
結論を言いますと、勝算が存在しない戦略には、最初から成功の余地は殆ど無かった、という事ではないでしょうか。。。だから、後の秀吉も柴田も家康も前田も、その後の期間、光秀について少しも関心を持った発言をしていないと思うのですね。私の知識ではないんですけれども。「ああ、ありゃ、なんの理由もないよ、、、つまらない話なんだよ、、、」そんな感覚だったのではないかと思います。
個人的な興味で言えばですが、
光秀においてIFを問うにおいて、
本能寺の変を起こす代わりに、信長の教育係りの平手秀政のように、光秀が「主意に応えられず申し訳ない」と自主的に切腹し、光秀の子孫家来を信長に宜しくと託していたならば、明智家はどうなっていたか?、というIFが、面白いかもしれませんね。。。
動機については、私も個人的にそのような節があるのではないかというように想像しています。
ただ、信長が光秀を疑惑の目で見ていたのであれば、それではなぜ絶好のクーデターの機会を与えてしまったのかが難しくなるところですよねぇ。
光秀が自主的に切腹のIFも面白いですね。個人的には信長の性格からしてかえって不興を買いそうな気もしますが・・。
毛利を推した根拠は幾つかあります。
確かに当主の毛利輝元は関ヶ原でも西軍の総大将でありながら、優柔不断で結局西軍敗因の一つでもあったとされていますが、少なくとも本能寺の変の時点では毛利両川の吉川元春、小早川隆景は生きていた。
で、秀吉は毛利家を味方とするために秀秋を最初は毛利の養子に送り込もうとするのですが、隆景は自分の養子にと申し出て結局小早川家の跡継ぎにしてしまう。後に関ヶ原の雌雄を決する裏切りをした小早川秀秋です。
関ヶ原の戦いの時点でここまで勢力を回復させたんですね。
徳川にしろ、豊臣にしろ信長の遺産があって後に全国統一を果たしますが、大返しがあって、織田家臣の中で秀吉が筆頭になり、織田家臣を纏めることができた。なければ柴田勝家にしろ滝川一益にしろ史実のように秀吉に屈することはなかったと考えます。
そうであれば、北条氏を制圧できなかったでしょうし、家康も駿府の大名のままであったと考えるわけです。
毛利が気概が足りないように見えるのは多分甲斐武田氏の衰亡を研究したからだと考えています。元就という大黒柱を失って足場固めに徹する。それが毛利としての当面の戦略である。と考えたとすれば、それは間違いではなかったといえるでしょう。
そうとすれば元就の晩年に四国や九州でも戦い続け、一族の関係と家臣の意見を尊重した毛利が元就の死後積極的な戦いをむしろ避けたことと、関ヶ原の際には西軍の総大将を一族の意見がまとまらない内に軽々しく引き受けたことも説明できます。
さらに、元就の時代に一豪族から中国制覇つまり、陶(大内)、尼子を滅ぼし領土拡大に成功しています。この時に統治体制の拡大へのノウハウを得ているんですね。
だから、明治維新の際も長州閥が政治権力を一手に握ってしまう。最初は西郷隆盛が軍事力をバックに政治の中枢を握りかけたのにです。
毛利を選んだ理由はそういった理由です。
毛利説の根拠、どうもありがとうございます。
政治体制の点から覇権を請け負えるのは誰かを考える視点は面白いですね。確かに戦国生き残り長けた毛利氏ですから、中央の混乱が長引けばその間に勢力を伸長して天下を取るというのもありそうですね。
①明智光秀のこのクーデターはかなり成功の見込みはあったのでしょうか?
私の持論は足利義昭黒幕説です。光秀はかねてから義昭と通じ、足利幕府再興を謀っていましたが、信長に従ううち信長に心酔。迷いが出始めます。しかし、未だに義昭と通じている光秀を快く思わなかった信長は露骨な虐めにでます。丹波国召し上げ、中国征伐を命じます。信長にしてみれば「自分の力で国を切り取れ」ということだったのでしょうが、義昭に唆されたこともあり、急に心変わり。本能寺急襲と相成ったのでありましょう。
本能寺というホンの一時の空白を狙ったことを考え、またそれからの朝廷や織田家武将らにどうやって当たるかということが、据え置きになってますので、これらのことを考えると光秀らしからぬ突発的なクーデターだったといえるのでは?つまり信長暗殺は見込みはあったが、征夷大将軍にはほど遠かったということでしょう。
②特に、歴史上は羽柴秀吉の大返しで頓挫しましたが、これさえなければ成功していたのか、そもそもこの大返しは当然に想定しておくべきようなものだったのでしょうか
秀吉の大返しは有名ですが、話がうますぎます。始めから予想していたとみるべきでしょう。「信長の棺」では秀吉があらかじめ”山の民”に本能寺の脱出用洞穴を埋めさせたとありますが、真偽はわかりません。
朝廷に認められれば光秀に逆らうものは「朝敵」となりますので、その可能性はありますが、柴田勝家あたりがもう二週間もすれば光秀を討ったかもしれません。
③また、もしこのプロジェクトがここで頓挫していなければその後はどのようになったと思われますか?
秀吉・家康の力が大きくなってきてますので歴史は大きく変わりません。光秀はほめられた事をしてませんので、朝廷や諸武家からの信頼・尊敬は得られず、秀吉・家康の時代は変わらなかったでしょう。
黒幕がいた説は結構ありますよね。その上でなお、大返しで頓挫しなくてもやはり歴史は変わらないと見るわけですね。
そうなると今度は、もし家康が秀吉より早死にしていたらどうなっていたか、に興味が出てきました(笑)。
詳細にありがとうございます。
光秀が他の勢力の併合に失敗したのは、光秀の敵対者として秀吉が素早く立ち現れたということも大きいのではないかと思いまして、もしそうでなければ案外、秀吉以外の他の勢力は幕府と結びつきの強い光秀に対して日和見的に従ったのではないだろうか、という疑問があったんですよね。
それでもやっぱり難しそうでしたか・・・。