私にとって他人とは社会の中で共に生きる人のことです。人は多かれ少なかれ支え合って生きているので。家族のように近い他人も、赤の他人も、この意味では同じです。
と同時に、共に生きるけれども、結局は自分とは別人。私は社会の中で結局ひとりぼっちなのだと思います。
やさしくしてくれたら嬉しうので大切にしたいと思い、攻撃してきたらなんか鬱陶しいから遠ざけたいと願う、そんな存在ですね。他人って。相手が悪いというより性格や相性もあるので、オールマイティーにどんな人とでも気持ちよく付き合えるタイプの人は素直に心からうらやましいです。
ヒト科の別種
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%88%E5%B1%9E
ホモ・サピエンス以外ってことですね。
いなくなっても利害がほとんどないが、群集としていてくれないと困る。
一人ひとりは密接な関わりがないので、一人・二人がいなくなっても、私の生活には影響がない。だけど集団として考えた時、同じ町内、同じ市民、同じ日本人、同じ星に住んでる人間として考えると、すっかりいなくなってしまうと、かなり困る。
他人でないのは、近くに居る&親族のひと。
それ以外は他人。
親族でも遠くに居ると他人とほとんど変わらない。
今は近くに居る親族も、離れてしばらくたつと他人に近くなるでしょう。
友人や恋人はむしろ親よりも内面的に心を許せる存在です。
ちなみに親子に縁が薄い水星人です。
しかし、親は他人のように接していても血のつながりは隠せません。
他人でも自分のことを親身になってくれる人がいます。
そういう人は『心のつながりが強い』
親は『血のつながりが強い』
のだと思います
「自己以外の人間」ですね。
そして、私なりの「自己」の定義は、以下のようなものです。
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・意識するだけで随意に操れる(腕、足など)ものは、自己の一部である
・上記の定義によって認められる「自己の一部」から、
「自己」の領域を推定する
・不随意であっても、上記の定義によって推定される「自己」の領域から
切り離し不可能なものは、自己の一部である
(脳、心臓など)
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(以下、おまけ)
もし自分の体にもうひとつ別の頭がついていて、
それが独立した意識を持っていたとしたら・・・
上記の定義に従えば、その頭を「自己である」と認識することになります。
でも「他人」を違った風に定義している人なら、
その頭を「他人である」と認識することもありそうですね。
結合双生児が分離手術を行った場合ってどうなるんだろう。
そうなの?
他人=自分を原点とする座標軸に現れる無数の点、でしょうか。
自分ってどうなのか。他人ってどんな存在なのか。そういったことは、結局私にとっては、この原点と点の位置関係の差でしか理解出来ないので。。。
私の心臓が関知しない、
肉体と魂の在処。
ときどき、
音叉のように響きあう場合も、
あるのかも。
その逆も、
あります。
ええっと。
知合いでいる年数とか
血縁関係とか(親だとか親戚だとか)
性別とか
年齢とか
なんて
関係なんてないことも、
あるのかも。
万有引力とは、ひきあう孤独の事である
といったのは
たしか
谷川俊太郎で
孤独であることを、
他人とは繋がっていないことを
自覚しつつ。
他人に侵食させないライン引きを
してしまう(ATフィールド!)
でも
他人は嫌いじゃないです。
『孤独ほど僕を救い、僕を慰めてくれるものもないのである』といったのは安吾で、
その時、孤独でもいいんだ、と思ったっけ。
その孤独を慰めてくれるのも他人だけ。