【もしもペリーがあの時、浦賀に来航していなかったら・・・】

現代に生きる我々にとって、想像のつかないことですが、私が考えるに歴史というのは偶然の積み重ね。
あの時、一歩違っていたらペリーが日本に来航していなかった・・・、という情報・知られざる事実、ございましたら是非とも教えてください!!!

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  • 終了:2007/11/10 23:10:04
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回答6件)

id:Baku7770 No.1

回答回数2832ベストアンサー獲得回数181

ポイント19pt

 1846年ローレンス号が千島列島沖で遭難して乗組員が択捉島に流れ着かなければ無かったかもしれません。

http://www.ffortune.net/social/people/seiyo-mod/oerry.htm

 

 そんなことより、鯨油以外の油脂を使っていればアメリカは日本を目指す必要はなかったということもいえます。

http://rekitan.net/person/070419.html

 

 もっと言ってしまえば火薬の原料である硝石はチリに豊富にあったわけですから、インディアンがスペインの侵略を受ける前に連発銃を発明していればアメリカという国も存在していなかったからと言い切れるかもしれません。

http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/12m.html

 

id:filinion No.2

回答回数141ベストアンサー獲得回数13

ポイント19pt

ペリーは米英戦争に従軍していますので。

彼がそこで戦死していたら、もちろん来日しなかったでしょう。

 

また、当時の航海技術はまだ未熟でしたから、日本までの航海の途上で遭難する可能性もなしとはしません。

 

さらに言えば、彼は当時アルコール中毒だったとも言われています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B...

ですから、それが原因で体調を崩すとか、そうでなくとも艦隊司令長官として不適格とみなされて更迭される……といったことは充分あり得たはずです。

 

……とはいえ、これらは

「来るのはペリーじゃなかったかも知れない」

という程度のことです。

 

コロンブスのアメリカ到達はほぼ個人的な業績ですが、ペリーの来航は合衆国の政策に基づくものでしたので……。

ペリーが死んだり更迭されたりしても、他の誰かがやって来たでしょう。

 

では、アメリカの政策が変わる可能性はなかったのか、考えてみます。

 

ペリーを日本に派遣する決定を下したのは、当時の大統領、ミラード・フィルモアでした。

当時の合衆国議会は民主党が力を握っていましたが、フィルモア大統領はホイッグ党に属しています。

 

その彼が大統領に慣れたのは、前任者の死のためです。

彼は、そもそもはザカリー・テイラー大統領の副大統領だったのですが、テイラー大統領の死に伴い、大統領職を引き継いだのです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8...

 

そして、テイラーの死は、コレラによる病死とされています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%B...

「ワシントン・モニュメントでの式典参加後に、テイラーは病気になった。当日は猛暑で、テイラーはキュウリ(さくらんぼとの説もあり)と牛乳を摂りすぎて体調を崩し、五日後に重度の消化不良で死去した

 

ですから、もしも1850年7月4日が猛暑でなかったら。

テイラーは任期をまっとうしたかも知れません。

 

そして、テイラーが病死せず、フィルモアが大統領になることがなかったら、日本開国、という合衆国の方針は採用されなかったか、少なくとも数年遅れていた……かも知れません。

 

で、1861年には南北戦争が始まります(リンカーンが大統領になれば、ですが。第15代大統領、ということになりますね)。

そうなると、アメリカは極東に手を出す余裕を失いますので、(史実でも、南北戦争はアメリカの東アジア政策を停滞されたわけで)江戸幕府は一定の猶予を得ることになったでしょう。

 

幕府の体制も、すでに制度疲労の限界だったような気もしますが……。

しかし、現在「幕末」として知られる時代は平穏のうちに過ぎたでしょう。

 

史実では、黒船がやって来た時、将軍家慶は病床にあり、次にやってきた時は家慶が病死した直後、新しい将軍家定も病弱でした。

おかげで幕府は混乱に陥ったわけですが、1866年には慶喜が将軍になります。

慶喜は英明でしたし、史実でも長生きしましたので。

彼が将軍になってからなら、たとえ黒船がやって来ても、幕府は史実より少し落ち着いた対応ができたかもしれませんね。

id:kitchensamurai No.3

回答回数128ベストアンサー獲得回数9

ポイント18pt

南北戦争がもう少し早く始まっていたら、これなかったでしょう。

南北戦争のために、日本でのアメリカの影響力は著しく低下し、

貿易量も、在留外国人の数も、長い間イギリスの後塵を拝していたからです。


また、ゴールドラッシュがなかったら、アメリカの太平洋進出は

ずっと遅れていたはずです。


くわえて、1808年のフェートン号事件が平和裡に解決されていなかったら、

早い段階でイギリスが侵略してきたのではないか、と

『久米博士九十年回顧録・上巻』にあります。


でもまぁ、ペリーのほかにも外国使節はずいぶん来ていましたから、

どのみち開国になったと思いますよ。開国は偶然ではなく、必然でした。

http://www.yahoo.co.jp

id:sakrambom No.4

回答回数517ベストアンサー獲得回数21

ポイント18pt

ペリー来航予告が日本側に十分に広まっていれば、入港を拒否できた可能性もあります。もちろん、巨艦を前にしての無謀な対抗ではありますが。

ペリー来航予告は、海防掛以外には極秘扱いとされたが、琉球開国担当の薩摩藩主島津斉彬、長崎警備の筑前(福岡)藩主黒田斉博・肥前(佐賀)藩主鍋島斉正には内密に知らされ、そこから御三家に漏れていったという(『開国への布石)』。一方、薩摩・筑前・肥前に加え、江戸湾警備の四大名(川越・忍・彦根・会津藩)、及び御三家に情報を公開していたという研究もあるそうだ(青木美智雄氏「ペリー来航予告をめぐる幕府の対応について」『日本福祉大学経済論集』第2号、1991、←『幕末の天皇』より孫引き)。御三家の水戸藩が来航予告について知っていたことは関白鷹司政通への斉昭書簡(署名はないが筆跡から断定されるそうだ)から明らかなようである。いずれにしても、限られた範囲であったことは間違いない

アメリカの産業革命、または捕鯨業の拡大がなければ、日本海国を迫る必要もありませんでした。

ペリー来航による開国要求の背景には、太平洋横断汽船航路開設、捕鯨船の北太平洋進出があった。当時、アメリカは産業革命の真っ只中であったが、それを支えていたのが紡績業の発展であった。アメリカは、その市場として魅力的な中国で、ライバル・イギリスに優位を確保できる「最後的条件」となる太平洋横断汽船航路開設を切望した。日本は太平洋航路における絶好の寄港地であり、日本の開国は中国進出にとって不可欠だと目された。また、捕鯨業の拡大とともに漁場が北太平洋に移り、日本近海で捕鯨船の遭難がしばしば起こった。自国民の生命と財産を保護するために、日本に対して、漂流船員救助と船舶の寄港地を求めることは、アメリカ政府の「義務」だと見なされていた。

http://bakumatu.727.net/bakumatu/tuushi1-kaikoku-hosoku.htm

ペリー来航前に、日本の軍事強化や西洋との交流を主張する声があった。

佐久間象山はペリー来航前の日本の社会状況の中で、当時日本人が欧米人を夷狄と見ている夷狄観の偏見を捨て、もっと視野を世界に広げる必要性を強調した。鎖国攘夷が不可能であり、むしろ西洋の先進技術を導入し、日本国力の強化こそが日本の欧米に侵略される危機から免れる唯一の道である、と主張した。「東洋の道徳、西洋の芸術」という発想はまさに彼の理想である。つまり、東洋の道徳と西洋の先進技術の融合で強大な日本を作り出す、という象山の夢である。実際、彼は天保10年(1839)江戸で塾を開き、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬、橋本左内など幕末名士を育った。1841年、象山は藩主の真田幸貫に『海防八策』を建言して砲台を建設し、銅の輸出禁止と大砲の鋳造、洋式水軍の創設などを説いた。やがて1850年、彼は砲術塾を開き、新しい兵器を作り出した。1853年、ペリー来航直後、彼は老中の阿部正弘に『急務十条』を献策し、海軍の設置と海防防備の重要性を唱えた。

http://bakumatu.727.net/bakumatu/tuushi1-kaikoku-hosoku.htm

id:Velocity No.5

回答回数592ベストアンサー獲得回数2

ポイント18pt

もっと早く石油の時代になっていたら、鯨油目当ての捕鯨船のための開国要求はなかったかも。

http://www.webvider.com/shinsengumi/index012.html

id:trinh No.6

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ポイント18pt

ペリーは中国にも立ち寄っているが、当時の中国は太平天国の乱で混乱していた。現地のアメリカ領事はペリーに中国に留まってアメリカの利権保全に協力するように懇願したが、ペリーはこれを無視して日本に行ってしまいました。ここでペリーが日本行きを断念していたら、歴史は変わっていたかも知れません。『アジアの海の大英帝国』(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061596411/)という書籍に載っています。

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