その境遇が多用される事についての文学論を紹介、または書き込みお願いします。
日常的にあり、無理のない自然な旅立ちを演出しやすいからじゃないでしょうか?
もし主人公の親が要介護なら、魔王を倒しに行くどころの話ではないですから
神話の法則―ライターズ・ジャーニー
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A2%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B%E6%...
親がいない事に言及して、長々書かれてはいませんが
この本の中では神話をただの物語だと考えています。
無数に存在した話の中で、なぜその話は愛され 長く語り継がれたのか?
そんな内容です。
完全に私見で恐縮です。
理由は二つ考えられます。
1、戦いの日々を過ごす主人公に「安息の地」があると都合が悪い。
たとえ両親が健在だとしても、満ち足りた生活を送っている主人公はほとんどいません。
2、主人公の特殊さを演出するために、生い立ちの特殊性が必要。
この要素はかなり強いと思います。
主人公がなぜだか精神的に強かったりポテンシャルを秘めてたりする事を説明するのに、
何らかの「事情」みたいなものが必要になってきます。親がいない・いなくなる事でその事情が描きやすくなるのではないでしょうか。
村上龍の小説「コインロッカーベイビーズ」なんかはまさにっていう感じですね。
村上・春樹の方なんですけど「海辺のカフカ」を読んで、純文学でさえ「親なしかぁ」と思った訳です。
あ、つーか、ある部分、親殺しの話なんですが。
少年や少女が主人公の小説は青春小説ですね。大概が、彼らが葛藤を重ねながら成長していく過程が描かれています。そこが読み手としてはとても興味深いところですね。成長物語は不足であることから出発することは多いですね。両親がいない、片親だったとかというところです。不在がバネになって大人になって行ったんだというところは共感を得やすいというところはありますね。何不自由なく育ってというのはよほど何かないと物語として組み立てていく場合は難しいように思えます。
書き手の問題もありますね。親が居なくて屈折した青春を送った。そういうことが機縁になって小説を書くようになったという人は多いのではないでしょうか。とくに青春時代に遭遇した挫折みたいなものは書き手の原点になっている場合が多いですね。自身も早くに父を亡くし、また、母はずっと病気だった。そのことによるエピソードの獲得というのはありますね。もちろんそれは今だから言えることですけど。
青春文学は不足から出発する、という文学論は成り立つように思えます。親の不在、身近な人の死、自身の性の目覚め(この場合はもてない)などと考えることもできます。
不足でもあり、枷(かせ)でもありだと思うんです。
「のだめカンタービレ」だと、のだめはご両親健在ですが、千秋は父親が半不在でなんらかの理由により憎んでいるらしい描写が出てきます。
彼らの境遇設定に違いを設けたのはどういう理論なのでしょう。
少年少女が主人公の物語の多くは、少年少女向けに書かれています。
と両親/保護者という存在は思春期の子供にとって、時には鬱陶しい存在になることもあります。
お勉強しなさい。好き嫌いはいけません! お行儀良くしなさい!
(「スープは音を立てて飲んではいけません!」みたいな)
エンターテインメント作品には、読んでる間一時の逃避体験を読者に提供してくれる場合もあります。
読者に、お父さんやお母さんが居ない境遇のヒーローヒロインに、一種の憧れみたいな感覚を抱いて
欲しい! という作者の意図があるのだ! というのはいかがでしょう。
また、単にストーリーに絡まないキャラクターを出さないようにするための作劇上の手段なのだ!
という風にも考えられます。
評論というとちょっと違う可能性もありますが、確か(記憶で書いています。すいません)田中芳樹の『夏の魔術』から始まる一連
のシリーズの中で主人公のコーヘイお兄ちゃんが、ヒロインの来夢に、名作文学の主人公の多くが片親やみなしごだったり
すると話して、慰めるというようなエピソードがあったように思えます。なるほど! と思った記憶だけがあります。
お読みになってみてはいかがでしょう。
「名作文学の主人公の多くが片親やみなしごだったりする」ことに焦点をあてた文学論を読みたいんですけど。どこかにあるはず、なんですよね。誰か知りませんか。
漠然とですが、主人公が1人の場合、親は死亡または孤児の設定が多い。
複数人の場合、親は出てこないまたは言及されない。
仲のよい親と子・・・では別の話になっちゃうからでしょうか。