「あらゆる科学理論は本質的には仮説であって真理ではありえないので、常に反証される可能性がある。そして反証された時にその理論は敗れ去る」
これは非常に納得できることです。
しかしどうして数学の場合は科学のように反証可能性のようなものがないのかがわかりません。
「論理だから」というのは自分にとっては全然自明ではありません。
そう言われると、なぜ論理だと覆されることがないのか? という新たな疑問が生まれるだけです。
「論理だから」が本当に正しのか、そしてそれが正しいのならばどうして論理だと覆されないのか、
それともそれ以外の理由があって数学の定理は覆されないのかを教えてください。
no.13の方が回答されたように、数学の公理というのは、こういうことを正しいとしたらという仮定です。そして、そこからの論理的な展開方法(述語論理)もこういう論理的な展開の仕方でやりましょうということも決められています。それで数学の内部では、一度正しいとされたことが覆ることがないのですね。形式だけで、物理のような自然のような対称がありませんし。自然現象などに数学を応用したときにそれがいつも正しいとは限らないのは、天気予報が外れるので誰でもわかると思います。
数学がこういう形になったのは20世紀のはじめころで、そのころ論争があり、3つの立場があったそうです。
1.論理主義(数学は論理学である)
2.公理主義(公理は正しい)
3.形式主義(公理も論理も仮定)
()内は大雑把な説明なんで数学的には正確ではありませんが。こういう論争がおこったのは、no.1の方が書いているように、19世紀にいろいろな空間(いろいろな公理系(=仮定)にもとづく空間)が考えられ、三角形の内角の和が180度にならない例などが出てきたため、その矛盾を数学内で解決するためだそうです。これが3.形式主義に落ち着いたのは一番矛盾が少ないからと聞いています。そのあたりの数学史を読んでみるとおもしろいかなと思います。
つまり、1+1=2というのは仮定で、1+1=2を正しいとすると2+3=5などになるということです。
ですから厳密にいうと、一度正しいとされたことが覆らなかったのではなく、つまり例えば三角形の内角の和は180度にならないことも発見されたのですが、そういう場合に、数学では、それを間違いとするのではなくて、ある仮定の上では、つまりある公理系ではそれが成り立つのだから、その中では正しいというふうに考えて議論をすすめるということです。そのあたり、どういう前提なら、それが成り立つかまで議論するというところが、他の学問とすこし違うかなとも思います。そして、そういう論争がおきたときはたいてい数学の新しい分野が開拓されるようです。それまで、ない、あるいは間違いとされた、自乗してー1になる数があると仮定して複素数の数学ができたように。
面白い疑問だと思います。
個人的には数学も物理も同じだと思います。理論にはまず「前提」があり、その上に「過程」(ストーリーの展開)があります。
この「過程」に関しては、誰がやっても同じ結果になるような手法でなければ、科学とは見なされません。ここで人によって結果が異なるのであれば、科学と呼びません。
では「前提」はどうでしょうか。私はこの部分こそ科学の反証可能性がつきまとう部分なのだと思います。簡単な例で示すと、「三角形の内角の和は180度である」という法則です。確かに、空間がフラットな場合、この法則は成り立ちます。しかし、もし空間が歪んでいた場合、三角形の内角の和は180度以上にも以下にもなるのです。
これは法則が成り立つ「前提」が変わったので、結果が変わったということで、その「過程」が反証されたわけではありません。
ニュートン力学も、アインシュタインの相対性理論によって「前提」が覆されました。物理学は、究極の統一理論が確立されていないので、学者は「前提」を仮説として提示し、実験によって検証するのです。
数学も同じことが言えるのではないでしょうか。ただ数学の場合、物理のように「自然界を支配する究極理論を目指す」という目的はないでしょう。理論の「前提」は、数学者がある程度自由に決められ、それが適切か否かは、自然法則を追求する物理学ほどシビアではないのかもしれません。
ある一定の条件(公理系)下で定理を述べそれを証明すること、というのが数学という分野の中心的な研究の形態である。
すなわち、
科学は何一つとして確定した前提がない(すべての前提に反証可能性がある)ためそれが覆されればその前提に基ずく仮定はすべて覆るが、
数学は公理系すなわち「確定した前提」の上に成り立っているため、その可能性がない。
ということです。
要するに科学の場合、これ以上分解できない粒子=原子→核分解の発見のようなことが起こりえますし、幽霊が存在することが証明される可能性もありますが、数学の場合4が5になったり*が/になることはないということです。
自然科学と違い、数学の場合は前提から厳密に定義されているからでしょう。数学的証明では、必ず証明の「前提」があります。その前提は証明の定義そのものであって覆るわけがないものなので、そこから導かれた証明もまた(途中計算に間違いがないかぎり)後から覆ることはありえません。
例えば有名なフェルマーの最終定理「3 以上の自然数 n について、x^n + y^n = z^n となる 0 でない自然数 (x, y, z) の組み合わせがない」では、「3 以上の自然数 n」と「x^n + y^n = z^n」という厳密な大前提の式が存在します。この前提はそもそも証明の前提であり、覆るわけがありません(覆ってはいけないと言うべきかも)。
一方、自然科学の場合は、前提となるのは基本的に観測された事実です。科学理論とは、観測された事実・データを矛盾なく説明するための理論であって、実際にその理論が世の中に厳密に存在することを証明しているわけではありません。出来上がった理論を元に行われた推論から新たな事象を予言し、その事象が実際に観測されることで信頼度は上がりますが、どこまで行っても完全な証明はできないものです。
例えば、ニュートンの運動力学は身近な物理運動を説明する科学理論として作られました。この理論は手で投げたボール程度の運動から地球や月の天体運動くらいまでの動作をよく説明しましたが、原子レベルの極小世界や太陽近傍などの極端条件では観測事実に合いませんでした。観測技術の進歩に伴い「観測された事実」という前提が変わってしまったから、その新たな事実を内包する新しい理論として量子論や相対論が生まれたのです。
ただ、量子論や相対論はニュートン物理学を否定・反証したわけではなく、あくまで「補正」しただけです。そしてこれからの観測技術の進歩に伴って、現代の理論もさらに補正されていくことでしょう。
ある前提の元に理論構築しているからです。
例えば1+1=2 という前提を崩す事から始めないと、数学の定理は覆せません。
科学理論は、既に目の前にある現象を解析する学問なので
不確かなものを確かにする作業ですから、当然、そこに使われた定理が妥当でなければ、簡単に覆ります。
数学において最初の前提は公理もしくは複数の公理で公理系と呼ばれたりします.数学は公理系の公理だけを前提に,論理的な議論を積み重ね結論を得ます.だから推論が間違いでない限り,公理系が正しいという前提のもとでは数学は普遍の真理です.これが論理的推論であることです.論理的に導かれる結論は形は違えど公理そのものか公理の別表現で同値のものか,もしくは公理から言えるよりゆるい命題になります.(私は男ならば私は男である・私は男ならば私は女でない(世の中に男と女しかしない場合)・私は男ならば男か女であるといったのが論理的な正しい推論です)
またある公理系が無矛盾であることをその系内部では証明できないのを,証明したのがゲーテルの不完全定理です.この世は闇です.
この問題は非常に興味深く僕もよく,命題の真偽なるものの何たるかを考えます.
その切り口で考えると、いくつかお答えできると思います。
この二つから、「反証可能性」の有無という違いが生まれます。
確かに「論理だから」というのは不十分な理由ですね。
「論理」はそれぞれの過程の一部に現れる「道具」に過ぎません。重要な道具ではありますが。
1世紀ほどまえに科学哲学という分野が、BLOG15さんと似た疑問から出発ていたと思います。カール・ポパーあたりはお読みになりましたか?すぐ読めるので良かったら感想ください。
もしある命題に対して正しい証明と正しい反証があったとしたら
それを使って、あらゆる命題を証明することができるようになります。(1 + 1 = 3 など、"間違った"ことも"証明"できる)
その瞬間にその公理系は破綻していたことがわかり、数学の証明に意味はなくなります。
また「数学の定理は覆されない」ことを数学の中で証明することはできません。
数学が破綻した、という話はSFのネタにもなってますね。
「正しいと証明される」=「覆されることがないと証明される」と言うことだと思います。
あと、数学の証明に反証可能性がないというは違うと思います。
証明は常に反証可能です。
そうでなければ、論文のレビューの意味がなくなってしまいます。
予想が否定的に証明されることもありますし、定理としては間違っていないが証明が間違っていたと言うことだってあります。
同じ理系分野の科目ですが、数学と科学は理論の展開の仕方が違います。
数学は演繹法、科学は帰納法です。
帰納法というのは、例えば猫の調査をするとき、1匹の猫の前にネズミを置いたら、それを追いかけた。次にもう一匹、別の猫を用意し、その猫の前にネズミを置いたら、それを追いかけた。このように、100匹の猫で試してみたところ、全ての猫がネズミを追いかけた。もちろんこの世界には、もっと数多くの猫が存在しますが、100匹試したら、全てがネズミを追いかけたんだから、残りの猫もネズミを追いかけるに違いない。だから、猫という生き物はネズミを追いかける習性があるんだ、という結論をくだしてしまうのが帰納法です。いわゆる「実験」という操作がこれにあたります。実際の実験は、もっと多くの猫を用いて試すのでしょうが、この世界に存在する猫全てを用いて実験するわけにはいきませんから、この方法を用いるしかないのです。確かに多数の猫を用いて試したわけですから、この結論はほぼ100%間違いないでしょう。しかし、実際は100%ではないのです。100匹試して100匹ともネズミを追いかけた。じゃぁ101匹目以降の猫がネズミを追いかける根拠は?当然ありません。このように、帰納法は「ほぼ正しい結論」を導きます。つまり、もしかしたら間違っている可能性もあるのです。実験で試した100匹以外の猫をまた用意し、同じ実験をしたら全くその猫たちはネズミを追いかけなかった。これで結論は覆されてしまうわけです。
では数学の演繹法ですが、なぜこれが覆されないのか。
厳密にいうと、覆される可能性もあります。ただ、その可能性は科学に比べてかなり微小なものです。なぜそういえるのか。
演繹法というのは、Aというものを定義する。Aを定義すれば、Bということが成り立つ。Bが成り立つならば、当然Cということがらも成り立つ。AとCを組み合わせる事により、Dが成り立つ。
このように、一番最初に何かを定義し、それを使ってどんどん理論を展開していくのです。100パーセント正しい理論と100%正しい理論を組み合わせて新しい理論を作るから、覆らないのです。と、100%と言っていますが、実際はどうかわかりません。最初に定義した「A」が、もし間違っていたら、全てが覆されてしまいます。「A」(一番最初の理論)が正しいという事は証明できないのです。(ゲーデルの不完全性定理)なので、絶対に覆らないとは限りませんが、覆される可能性はかなり低いでしょう。
「数学に関する質問です。なぜ一度正しいと証明された定理が覆されることがないのか? 」
オモシロいことを考えますね。2つのアプローチをしてみます。
【その1】
数学はいろんな公理に基づいて定理を導いていきます。公理から定理は「論理的に」導かれるのですけど。。。。。これじゃあ、納得されないと思うので。
ええと、数理論理学とかをやると、公理とかいうケッタイなものを勉強するみたいなんですけど、そのなかに、こんな公理があります:
「((Aである)かつ(AならばBである))ならばAである」
ただ単に推論規則を明示しただけ、です。で、公理は常に正しいと仮定するわけです。これが公理のひとつ(だったと思う)なので、いちおう「論理」というものは崩せないものになります(そもそも論理って何?ということも考えなくちゃいけませんが)
あぁ、もちろん、今とは別の公理系から出発した数学というのも、考えられないわけではないと思います。その場合は、「一度正しいと証明された定理が覆る」こともあるのかもしれません
【その2】
ほかの科学(物理や化学)の定理が覆される理由を考えてみます。だいたいが「新しいデータが得られて、それがこれまでの定理では説明できないから」定理が覆るのです
じゃあ、数学で「新しいデータが得られる」ことはあるのでしょうか?数学っていうのは、人工的に作られた世界です。比較して整合性をとる世界はないので、このような覆りかたはしないのです
【それとも】
専門家が「正しいと証明した」定理が覆らないという意味でしょうか?
たぶんこの意味ではないと思うんですけど。。。。。このような例を出しておきます。
フェルマーの最終定理の証明というのは、一度棄却されてますよね。なんでか?というと、証明に欠陥が見つかったから、です。一度数学者が「正しい」定理だと証明しても、その証明に欠陥が見つかれば、その定理は覆りますよ
数学は、「まずXXXは正しいということにしましょう」というものを決めてから「XXXが正しいならYYYも言えるよね」と皆で言い合う遊びなので、実際のモノを対象とする物理とは違うでしょうね。
no.13の方が回答されたように、数学の公理というのは、こういうことを正しいとしたらという仮定です。そして、そこからの論理的な展開方法(述語論理)もこういう論理的な展開の仕方でやりましょうということも決められています。それで数学の内部では、一度正しいとされたことが覆ることがないのですね。形式だけで、物理のような自然のような対称がありませんし。自然現象などに数学を応用したときにそれがいつも正しいとは限らないのは、天気予報が外れるので誰でもわかると思います。
数学がこういう形になったのは20世紀のはじめころで、そのころ論争があり、3つの立場があったそうです。
1.論理主義(数学は論理学である)
2.公理主義(公理は正しい)
3.形式主義(公理も論理も仮定)
()内は大雑把な説明なんで数学的には正確ではありませんが。こういう論争がおこったのは、no.1の方が書いているように、19世紀にいろいろな空間(いろいろな公理系(=仮定)にもとづく空間)が考えられ、三角形の内角の和が180度にならない例などが出てきたため、その矛盾を数学内で解決するためだそうです。これが3.形式主義に落ち着いたのは一番矛盾が少ないからと聞いています。そのあたりの数学史を読んでみるとおもしろいかなと思います。
つまり、1+1=2というのは仮定で、1+1=2を正しいとすると2+3=5などになるということです。
ですから厳密にいうと、一度正しいとされたことが覆らなかったのではなく、つまり例えば三角形の内角の和は180度にならないことも発見されたのですが、そういう場合に、数学では、それを間違いとするのではなくて、ある仮定の上では、つまりある公理系ではそれが成り立つのだから、その中では正しいというふうに考えて議論をすすめるということです。そのあたり、どういう前提なら、それが成り立つかまで議論するというところが、他の学問とすこし違うかなとも思います。そして、そういう論争がおきたときはたいてい数学の新しい分野が開拓されるようです。それまで、ない、あるいは間違いとされた、自乗してー1になる数があると仮定して複素数の数学ができたように。
良い質問ですね^^
私は微分積分で数学から逃げてしまったコチコチの文系人間なんですが、この質問にならば正確に答えられそうなので答えておきます。
数学史や科学思想史は好きなので。
BLOG15さんが問いかけたのはご自身がおっしゃっているように「数学に関する質問」であるわけですが、まずは、
「公理とは何か?」
「公理と定理の違いとは何か?」
という点をしっかりと押さえてください。
数学の“専門用語”として、「公理」という言葉を丸暗記するのをお薦めします。
この術語が丸暗記できないと、これからの話は崩壊しますから気をつけてください。
もし既に知っていたらごめんなさい。
======================================
ウィキペディア「公理」。1分程度、ななめ読みすれば十分でしょう。
本気で読んでも疲れるだけなので気をつけてくださいね^^;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%90%86
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実は先進国に生きる私たちは、ちゃんと公教育の場で“公理の事件”に触れています。
既にこのスレッドに登場している非ユークリッド幾何学(古代ギリシャ人の公理が覆された数学史の事件)であったり、
代表的な事件であるゲーテルの不完全定理であったりは有名な逸話なのですが、もっと簡単なものが四則演算の公理にあります。
それは、「なぜ0で割ってはいけないのか?」という問題です。
数学教師の教育姿勢に問題があったか、あるいは、たまたま数学教師がこの問題を語っていた時にうとうとしていたのか、
これは人それぞれの個人史になってくるかとは思いますが、(海外の事情は知らないものの)日本においては中学・高校で
学ぶことです。
なお、数学嫌いだった僕個人の話でいうと、これを知って面食らったのは高校1年生の頃でした。
「0で割ってはいけない理由はそう決まっているからだ」
と数学の先生は言いました。
その後、高校生の足りない脳みそなりに自分で高校3年生の頃に涙ぐましい努力で導き出したのは、
「0で割ってはいけないのは0で割ってはいけないからであり、なぜ0で割ってはいけないのかというと0で割っては
いけないからである」
という同語反復(トートロジー)でした。
これは、数学のようにエレガントな学問も、実は自足した体系にすぎないという大事な問題なんです。
学ぶには楽しみながら学ぶのが一番だと思います。
ニコニコ動画に投稿された番組をご紹介します。
以下の番組をニコニコ動画のアカウントを取得して視聴するのをお薦めします。
======================================
2007年10月20日 22:14:07 投稿
なぜ0で割ってはいけないのか? リンゴの分配から体の公理まで
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1324200
======================================
数学における公理と定理の問いかけを、こんなにシンプルにまとめている番組は
なかなかないと思います^^
多くの方が素晴らしい回答を寄せられていますが、7番目に答えられたyshkwさん
のコメントが特に大事だな~というのが、僕の認識です。
(yshkwさんのコメントより引用)
●思考の順番が逆だから(演繹と帰納)
●数学定理はそもそも反証されないように組み立てることが可能
「数学定理はそもそも反証されないように組み立てることが可能」という話が
出てきていますが、これは「なぜ0で割ってはいけないのか?」をご覧になれば
「なるほど」と分かってもらえると思います。
続いては、これまたガチで丸暗記で挑まないといけません。
演繹法と帰納法は、数学の専門用語であり、かつ、哲学の専門用語でもあります。
これまた、丸暗記できないと、これからの話は崩壊します。
======================================
演繹法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%94%E7%B9%B9
帰納法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E7%B4%8D
※例によって、真剣に読んでも疲れるでしょうからななめ読みを推奨します^^;
もし、既に知っているというのであれば、ごめんなさい、、、
======================================
ここまで押さえたら、後はインターネットの検索であったり、良書探しのツアーに
さえ出れば、事はあっさりと収まると思います。
自然科学には、数学、物理学、化学、生物学など様々なものがありますが、特に仲が良いのは、
“「数学+物理学」の結婚”であろうなあというのが僕の認識です。
とにかく分かりやすいお薦めの本はこちらです。
図解 相対性理論がみるみるわかる本 (単行本)
佐藤 勝彦 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%B3%E8%A7%A3-%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E6...
また、社会科学には、政治学、経済学、法学などがあるわけですが、
“「数学+経済学」の結婚”というのも見逃せません。
ある経済学者は、「金融工学で日本はアメリカに負けた」という発言をしています。
金融という事象を数学の手法を用いて解析し、その最適化(=最大出力化)を狙うのが、
金融工学です。
なお、工学(エンジニアリング)は、科学技術(テクノロジー)とも極めて相性が良いのです。
数学を手に入れた国家は常に軍事的に勝ち続けてきました。
200年前のナポレオンの軍隊が強かったのには、それこそ数多くの理由があるんですが、
土木工学に強かったというものも見逃せません。
自然を強引に大急ぎで工兵たちが改造して進撃をしていくわけなんですが、土木において
最も大事なのは数学です。数学を無視したらもう終わりです。
数学を無視した工兵部隊が橋をかけたら、ことごとく橋は壊れてしまいますからね^^;
なんだか違う話へと逸れてしまいましたが、最後にまとめておきます。
●数学者というのは世界規模の私立探偵集団であり、誰かが手ぬるい証拠(エヴィデンス)を提出した
場合は、数年がかりで集団で真か偽か検証される。めったにないが、数学者の集団の検証の結果、公理にさえ
覆った大事件は確かにかつてあった(これからもありうる)。これからもありうるけれども、今日においては
並大抵のことではない。そして、「もしかしたら、公理なり定理が覆るかも、、、」という出来事が起きている
場合は、ほとんどと言っていいほど大新聞の科学面にはちゃんと記事になっている(新聞の科学部記者も馬鹿
ではない)
●数学は軍事とも相性が良く、軍事とは国家そのもの。そして、軍産複合体が生み出した科学技術は民間に
転用されて法人の営利活動へと発展しやすい。日本のカメラ・メーカーが国際的にも強いのは、帝国海軍の
双眼鏡など、レンズ研究の歴史が培われてきたから。そして、インターネットにアメリカが強いのは、
これまた、もともとは大陸間弾道弾ミサイルの時代の際にWEB(蜘蛛の巣的な通信ネットワーク)を
作っておいて核ミサイルをソ連から撃たれても通信ネットワークを残らせようという軍事的発想があったから。
数学は国家の存亡や経済力とも大きな関わりを持っている。
ああ、なんだか、最後は本当に関係ない話になってしまいました、、、
長文、ごめんなさい。。。
コメント欄の追記分です。
ウィトゲンシュタインという人が「論理哲学論考」という本で、「論理の言語はトートロジーである」という表現をしています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86%E5%93%B2%E5%AD%A...
すっげえ大雑把に言うと:
・数学=論理というのは「同じ内容を別の言葉で言い換える」ということしかしない体系だということです。言葉面を言い換えているだけなので、定義規則を間違えて使っていない限り、反証も何も起こりません。
・それに対し、他の科学が行う「世界の現象を表現しよう」という命題の方は、最終的には経験からの類推に還元されます。これは、モデルと現実の類似性を見比べているだけなので、観察結果によって反証されます。
みたいな感じかなあ。
まあ、私の言い方はいい加減な表現だから、詳しく学びたい場合には自分で読んでみてください。
数学の場合は、正しいか正しくないか、その条件からして「人間が決めている」からでしょう。
いわば、数学では定義の整合性が学問的な問題となっているので、公理とはその定めた条件に破綻(論理矛盾)が見出されないということが証明されたという、定義となります。
一方、これが科学(自然科学)だと、そのポイントは現象の検証となります。
現象に対しての仮説(整合性のとれた現象説明)を立て、それが「観測された実験結果のデータ」と比較して、仮説とデータがどの程度沿うかどうかを判断することが問題となります。
仮説から外れたデータが観測されると、仮説のほうがまちがっていたとみなされます。
自然に存在している現象は、正しいか正しくないかは人間が決められるものではないので、それまで有力だった仮説があったとしても、その仮説(説明の整合性)に適合しない新しいデータが検出されるかもしれません。
しかし、数学における公理とは、条件を人が定めているものです。
つまり自然科学でいうなら、仮説についての検証データそのものを人間側で設定できるような関係になっている…というように、人為的である、という点が自然科学と数学のちがいではないかと考えます。
もしかすると「論理」そのものが信用できない、ということでしょうか。
数学は論理に信頼を置いて成り立っているわけですが、論理がそこまで信用されるのにはわけがあります。
「出口現代文入門抗議の実況中継(上)」p.62にとても参考になる文があるので、ちょっと長い上に孫引きになる(東京大学の過去問だそうです)のですが引かせてもらいます。
われわれが「論理」と呼ぶものは、三歳の童子にでもできる若干の語の使い方を基礎にしている。「…でない」という否定詞、「…かまたは…」という選言詞、「…でありまたは…」という連言詞、「…はみんな」という総括の言葉、それに「何々は…である」の「である」、この五つの語がどのように使われるかを規則の形で書き上げたのが「論理学」なのである。
(中略)
だから「論理的である」、つまり「論理的に正しい」ということもこれらの規則の正しい組み合わせであるということにほかならない。だが、それはとにかくも言葉の使用規則の組み合わせなのだから、でてくるものもまた規則である。ということは、それらは事実についての情報を全然持っていないということである。六法全書をいくらひっくり返してみても誰がいつどこで誰の金を盗んだといった事実情報が全然でてこないのと同様である。事実的な情報がゼロだということを裏返せば、事実がどうあろうと、世界がどう動こうが正しい、ということである。それが、論理学の普遍性とか必然性とかいわれるものである。何が何であろうと明日は雨か雨ではない、それはそうであろう。
同じことが、「論理的な話の進め方」についてもいえる。こうこうである、だからこうなる、とか、かくかくである、なぜならこうこうであるから、といった話がもし論理的に正しいものであるのならそれが何がどうであれ正しいのである。事実はこうこうであろうがあるまいが、もしこうこうならば何であれこうなるのである。ではこのようにある前提なり理由なりからある帰結を引き出すのがどういう場合なのか。それは先にあげた五つの言葉の使用規則の通りに従った場合である。
「ここのお菓子はみんなお前のだよ」と言っておいて、その一つを私がつまむと子供は怒るだろう。私が規則違反をしたからである。「ここのお菓子はみんなお前のだ」と言うとき、それは「このお菓子はお前のもの」、「その隣のお菓子もお前のもの」、……といったことを言うことなのである。だから改めて「このお菓子はお前のもの」ということは、もうすでに前に言ってしまったことを繰り返して言うことなのである。すでに一度述べたことをあらためて再度繰り返す、間違いっこはない、だから論理的に正しいのである。(中略)つまり、冗長であることが論理的であることなのである。
(太字部は原文傍点)
つまり、「論理的に正しい」かどうかは前提が正しいかどうかには関係ないわけです。数学というのは、ある前提(「公理」とか「公準」とか呼ばれる)をおいて、それが正しいかどうかはひとまず置いておいて、仮にそれが正しかったとしたならば、何が必然的に言えるのか、ということを探る学問です。だから、ある数学の定理は本来それが導かれる源泉となった公理たちとセットになっているわけです。Aが公理だとして、そこから論理的にBが導けるということは、「Aが成り立つ」という主張の中に実は「Bが成り立つ」という主張が含まれているということです(引用文のお菓子の議論)。言ってしまえば数学の定理それ自体はトートロジーにすぎません。そして、だからこそ覆らないわけです。
対して自然科学においては、考え方は数学と同じで、「原理」と呼ばれる前提(つまり数学でいう「公理」)を置いて論理的な議論を行います。しかし、自然科学と数学の決定的な違いとして、自然科学には現実世界の振る舞いを表すという目的があります。ですから、「原理」から導かれる論理的結論が現実と食い違っていることがもし観測や実験の結果明らかになれば、前提、つまり「原理」が不適格だったということになって、最悪理論は丸ごと崩れ去るわけですね。ピサの斜塔の実験でアリストテレスの自然哲学が間違っていると立証されたように(あの実験は伝記の著者のでっち上げという説もあるようですが)。その意味で、あらゆる科学理論はその前提の適格性が問われてしまうからこそ「反証」ということが起こりうるわけです。そういう意味では数学というのは自由ですね。
私の考えでは
数学にも仮説はあるし、反証可能性もある。
-
フェルマーの定理も証明されるまでは仮説。
、で証明されると一旦定理とされる。
-
しかしながら、その証明に使われた公理系に矛盾が発見される可能性があって
もしも矛盾が発見された場合にはその公理系を修正する必要がある。
で、その修正した公理系でも証明できなければ再び仮説となる。
-
で、公理系自体が無矛盾であると証明された場合はどうなるか、というと、
これは論理の問題になるわけです。
-
「論理的だから」が納得できない、というのはわかりますが
数学の問題は最終的にいくつかの単純な論理学の公理
(たとえば「『Aが真であり同時に偽である』ということはない」というルール)
にたどりつくことになっていて、
-
これは結局のところ実は信じるかどうかだけです。
この基本となる論理学については
数学者も皆が一致した意見を持っているわけではありません。
-
「ラッセル」で検索すれば面白い話が色々でてきます。
このような事を考えるのを「数学基礎論」といいます。
数学の正しさを担保するがための学問ですね。
このような学問がある、という事自体が
数学で証明されたものが絶対的、永遠に正しいわけではない、という事の証です。
-
ただ他の科学よりもより単純なルールを出発点にしているだけに
客観性が高いとは言えると思います。
コメント欄の追記分です。
http://q.hatena.ne.jp/1210570897#c121913
http://q.hatena.ne.jp/1210570897#c121916