あなたが思っている素朴な疑問をお書き下さい。
素朴な疑問とはわざわざ「人力検索」を使わなくても「いわし」で解決できる様な小さな疑問です。
専門的な知識・法律問題・トリビアについては「人力検索」をご利用下さい。
ルール
1.質問者は素朴な疑問をわかりやすく書いて下さい。
2.回答者の皆様は質問にできるだけやさしく答えてあげて下さい。
3.人力検索初心者の方は、質問・回答の練習として使って下さい。
4.回答・質問に慣れてきたら「人力検索」にもチャレンジしてみて下さい。
面白い質問・回答については別途ポイント送信(1~10ポイント程度)致します。
コミュニケーション能力には、相手の言うことが分る、自分の言いたいことをそのまま相手に伝えることができる、ということに加えて、良好な人間関係を築く、相手に不快な感じを与えない、相手からの信頼をかち得る、なども含むと思います。
この言葉は、比較的最近言われだした言葉だと思います。おそらく、10年前にはほとんど言われなかった言葉だと思います。
僕の説ですが、日本は10年前(1997-98ごろ)に時代の断絶があったと思います。それ以前は、「日本はまだ今までのような路線に戻れる。それでやっていける」という感じがあったけど、それ以降は、「もう今までの社会には戻れない」という感じで、日本社会が漂流しはじめたと思います。それ以前は、社会がハッキリしていたので、人間関係もシンプルだったと思います。先輩、後輩の関係を守って、ごまをすって、和を重んじ、飲めない酒を無理して飲んで、面白くもないカラオケで拍手してれば、うそでもうまくいっていた。でも今は、それでは済まないような社会になってきたということだと僕は思っています。だからコミュニケーション能力なんて言葉が出てきたんだと思います。
わたくしは、相手の言葉を不快と思ったことはほとんどありません。
相手も、不快と思ったのなら、そうはっきり言うべきなのに、
明示的にそう言われたことはほとんどありません。
そんなことをやらないでも、察することがコミュニケーション能力なのだとしたら、
そもそも、コミュニケーション能力を、伸ばすことなんかできないですよね?
にもかかわらず、コミュニケーション能力を伸ばせ、とか、
相手の気持ちを考えろ(相手の気持ちを機械的に判断できないのに)などという
文字どおり、「不可能」な要求が、なされているのです。
最近は地球規模で人類が増え、地球規模で環境交流が増えた。
そうなるとコミュニケーションなくしての平和は有り得ない。
会話交流を密にしてお互いを理解しあっての交流。
そうしないと戦争戦闘。
殺戮殺し合いが多くなればコミュニケーションの大切さが分かる。
会話交流は人の知恵。
猛獣でも無駄な戦いはしない。
人が幸せに平和に生きて行く武器としてコミュニケーション能力を勝ち取った。
学校教育に必要なもの。
人が平和に生きていく為の道具能力です。
── 私は メキシコ人の妻と結婚したので こうした文化交流を総称して
“Cross Cultural Communication”の只中に生活しているわけで(笑)
しばしば その断絶についても経験しています。(Hamolsky, Sidney L.
ロシア生れの言語学者、京都アメリカ文化センター館長として赴任)
とは、いったい何なんでしょうか?
こんなものは、主観的にしか評価できませんよね?
にもかかわらず、なぜ、こんなどうでもいいことが重視されるのでしょうか?
わたくしは、高い確率で、コミュニケーション能力が低いと判断されます。
その、わたくしは、コミュニケーション能力が「低い」と思った人間は、これまでに一人もいません。
コミュニケーションに齟齬が生じたと思ったことは一度もありません。