デカルトに関する質問です。


要素還元主義という考え方を生みだすきっかけともなったデカルトの「分析と総合」ですが、
この「分析と総合」というのはデカルト自身は、部分の総和と全体はイコールだと考えての思想だったのでしょうか?
それとも今でいえば、非線形的な考え方に基づいたものだったのでしょうか?

何か根拠となるもの共に提示して教えてください。

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  • 終了:2008/09/19 17:39:56
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ベストアンサー

id:jo_30 No.1

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一般的には仰るように「デカルトは部分の総和が全体とイコールだと考えていた」という解釈が正解だと思います。

例:デカルトの心身二元論

簡単に言えば、デカルトは心身を分けることによって、心理的現実を身体的(物理的)現実から切り離し、後者については要素に還元して機械の様に分析総合できると考え、後者については内観のみで観測されるものであり言わばこの世界の外にあるものとしていました。物理的現実の世界ではあくまで全ては要素に還元できるのであり、そこで全体は「部分の和」に分割されうるわけです。

実際、多数の解剖を手がけ臓器の精巧な仕組みなどを実地で理解していたデカルトにとって、人体もまた機械であるというのは明瞭な事実であったのではないでしょうか。


一方で、以下のように「デカルトにはそれを越える発想があった」(おそらく質問者様の疑問に近い考え方)をする人もいるようです。たとえば

例:方法の問題:デカルト「方法序説」ノート  林 一六 (筑波大学 生物科学系)

デカルトの「哲学」や「方法」をこの機械論的還元主義のみに限定するのは一面的であると思える。彼はアリストテレス、スコラ哲学を再検討するべく、それまで学んだ知識をいったん疑ったが、確実な基礎をもつものとして数学、特に幾何学と代数学を考えた。そして、すべての現象に存在する「比例」に着目した。比例というのは、関係のことであり、対象にかかわらず存在し、これによって「関係の絶対性」という概念が導かれる。

「・・これらの学科が、対象は異なっても、そこに見だされるさまざまな関係つまり比例だけを考察する点で一致することになるのをみて、こう考えた。これらの比例だけを一般的に検討するのがよい」。デカルトはこの「関係」が本質的なものであり、事物を構成している各部分をその成分に分解すると、関係性は消滅するということに気がついていた。この関係性は自然のもっているもう一つの面、すなわち「構造」または「システム」ともいうべき概念である。

「・・たとえ、神が最初はこの世界にカオスの形しか与えなかったと仮定しても、同時に神が、自然法則を設定し、自然がいつもそのように働くよう協力を与えさえするならば、・・つぎのように信じうるのである」。「純粋に物質的なものはすべて時間とともに、現在われわれが見るようなもになりえたのだろう」「そしてそれら物質的なものの本性は、このように少しずつ生成するのを見るほうが、全くできあがったものとしてのみ考える場合よりもはるかに把握しやすい」。最初に混沌と運動の規則をあたえると事物が関係をもちながら全体として形成されてくるというダイナミックな自然観で、きわめて現代的な自然観ということができる。デカルトの哲学にはこのような要素もあり、機械論的要素還元論だけがデカルトの哲学であるというのは一面だけを強調したものといわねばならない。

なるほど面白い観点であり、デカルトの「可能性の中心」を読む考え方としては興味深いですが、残念ながら「デカルトがそう考えていたか否か」について言えば私は否だと思います。


たとえデカルトが実際に「(部分の和に分割すれば失われる)比例=関係性に本質がある」と考えていたとしても、質問者さんが仰るような非線形…複雑系やフラクタルのようなアイデアを得るためには、重要な一アイデアが彼には欠けているからです。それは心と身が実は一元だという発想です。


結局のところ「関係」の本質的な性質に気づいていても、それを「心」的現実に属するものと捉える限り、言い換えれば「心」と「身」の二元として人間をひいては世界を捉える限り、「部分の和が全体になるとき、そこには部分和から線形に決定され得ない独自な性質が存在する」という、心身一元的な考え方を持つことはできないからです。部分の和が全体と必ずしもイコールにならない(健康な臓器をただ並べても一人の人間にならない)ということは理解できても、それを「心」の働きだ・神秘だ、と考える時点で「全体性」に関する現代的考察はできません。いくら全体の特殊性に気づいていても、心身を二元と考えている時点でそれがデカルトの限界を表している、というのはつまりそういうことです。



もちろん公開されている文書が彼の思想の全てであるとは限りません。あるいはもしかしたら……デカルトがそう考えていて、しかしそれを発表することはできなかったと想像することもできます。

たとえば『方法序説』の第五章には、彼の「全体=要素還元主義」的な思想が全体に充ち満ちていますが、この内容を彼は最初に「宇宙、または光に関する論考」という題でまとめたにも関わらずそれを「若干考慮することがあって出版を見合わせた」と書いています。彼が「考慮」したのは、天動説を唱えたガリレオ=ガリレイが教会から断罪された事件でした。やがて方法序説の中におさめる形でそのアイデアを公開するわけですが、天の運行が機械論的に説明できるとした考えすら教会からは異端であり冒涜であるとされた時代からほどない頃に、彼が身体の機械論的説明を公開するにあたって慎重に「心」すなわち教会の扱う領域を避ける為に「心身」を二元的に分けざるを得なかったのは当然でしょう。(すなわち「心身二元論」は彼の思想の核ではや限界点ではなく、単に時代の要請からくるものだと考えることもできます。)ましてその上仮に、その「心」すなわち魂や理性の全体性さえも論理的に説明しうるとする……すなわち質問者様の仰る「非線形的分析」に類する意見が、仮にデカルトにあったとしても、それがどれほど危険なインパクトを持ち、また一般の想像や理解を完全に越えていたかは、充分推測できることです。


…もっともこれはかなりの部分ファンタジーに属する話ですから、普通に考えてデカルトの公刊された文書の中に思想の現代性を読み取るのは若干「穿ちすぎ」である、というのが妥当な評価だと思われます。

id:BLOG15

回答ありがとうございます。

もう少しじっくり読み、考えてから再コメントさせていただきます。

それにしてもjo_30さんの回答は的確で深くてためになります。


追記

>普通に考えてデカルトの公刊された文書の中に思想の現代性を読み取るのは若干「穿ちすぎ」である、

>というのが妥当な評価だと思われます。


確かにおっしゃる通りだと思います。ただアリストテレスは当時すでに、

部分の総和と全体は異なるという思想をもっていたようですので、

もしかしたらデカルトもそう考えているかもしれないな、と思い質問をしてみました。

ありがとうございました。

2008/09/19 17:39:37
  • id:rsc96074
    ウィキペディアの「還元主義」の難点のところにヒントになりそうなことが書いているようですよ。
  • id:BLOG15
    コメントありがとうございます。
    そこを読むと、デカルトはアリストテレスのように全体は部分の総和以上のものであると考えているようにとれるのですが、そこだけでは少し根拠が薄いような気がしています。

    ただヒントとしては参考になりそうです。ありがとうございます。
  • id:jo_30
    m(__)mお褒め頂き恐縮です。
    私の方こそ、BLOG15さんの数々の面白い質問・飽くなき好奇心、そしてはてなへの貢献度に、頭の下がる思いです。

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