http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1569_23528.html
この「板橋脳病院」の当時の所在地(板橋であることはわかりますが)や、現在どうなっているかといった情報を教えてください。
「板橋脳病院」という病院はありません。これは、太宰がバビナール中毒で入院していた東京武蔵野病院のことです。
同病院で太宰の主治医だった中野嘉一は、のちにこのように書いています。
ずっと後になって、太宰は「東京八景」という作品を書いているが、この八景の中に、「板橋脳病院のコスモス」というのが出てくる。これは、あの病棟の鉄格子にサルがするようにすがって、「出してくれ、出してくれ」と叫んでいた彼の目に映じた赤や白のコスモスの花であったと思う。殺風景な、花ひとつない廊下の暗さ、そして鉄格子の窓。これらと対照的に、中庭のコスモスの花が彼の脳裏に強く印象づけられたせいであろう。
東京武蔵野病院は、現在も同じ場所にあります。
太宰はバルビツール中毒で、昭和11年に東京武蔵野病院に入院しています。
現在もコスモスがあるかどうか知りませんが、おそらくは、この病院を指しているものと思われます。
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なるほど、条件には合っているようですね。
おそらく「板橋脳病院」という固有名詞ではなく、板橋にある
精神病院、という意味ではないでしょうか。
によれば、太宰は1936(昭和11)年10月、麻薬中毒治療のため
東京・江古田の東京武蔵野病院に入院しています。この病院を
指すのではないかと。
で、現在の東京武蔵野病院のサイトで沿革のところを見ると、
1928年(昭和3)年の開院以来とくに移転などの記事はないので、
現在の所在地(東京都板橋区小茂根4-11-11)に当時から建って
いたものと思われます。昔と現在の建物写真、近辺の航空写真
などもこの沿革のページに載っています。
固有名詞ではないか、あるいは通称だったのかもしれませんね。
「板橋脳病院」という病院はありません。これは、太宰がバビナール中毒で入院していた東京武蔵野病院のことです。
同病院で太宰の主治医だった中野嘉一は、のちにこのように書いています。
ずっと後になって、太宰は「東京八景」という作品を書いているが、この八景の中に、「板橋脳病院のコスモス」というのが出てくる。これは、あの病棟の鉄格子にサルがするようにすがって、「出してくれ、出してくれ」と叫んでいた彼の目に映じた赤や白のコスモスの花であったと思う。殺風景な、花ひとつない廊下の暗さ、そして鉄格子の窓。これらと対照的に、中庭のコスモスの花が彼の脳裏に強く印象づけられたせいであろう。
東京武蔵野病院は、現在も同じ場所にあります。
これは決定的な証言ですね。それにしてもよくご存じです。ありがとうございます。
これは決定的な証言ですね。それにしてもよくご存じです。ありがとうございます。