お釈迦様の体得した悟りは、所を日本に移せば、修験道や神道における禊のようなものかもしれません。文明的なものを、禊ぎ、祓い、清めて、1匹の生物になりきる。言葉のない世界を生きる。
悟りと禊ぎは、同じものだから、天台宗では今でも千日回峯行が尊ばれるし、禅宗は言語を使うなというわけです。
さて、このように禊ぎや悟りを理解したときに、言語以前の人間の心や感情と、言語が生まれた後に形成される意識とを、別々のものとして扱うことが望ましいと思います。言語以前と言語以後とをうまく言い表す言葉を教えてください。
(ひとり一回だけにしますので、ご自身の言いたいことを、要点を明確にわかりやすく書き込みお願いします。)
「赤い」のように分かりやすい言葉であっても、人の数だけイメージがある。
「ラーメン」の場合、九州の人は、トンコツスープのまっすぐ麺、東京の人は醤油スープの縮れ麺、、、、と違いますからね。
コミュニケーションとは何かということにもなりますか。
我々は少ししゃべりすぎなのかもしれませんね。
話せば通じるという期待をついついもってしまうけど、実はデュアル・モノローグなやりとりなのかもしれない。
言葉は記号に過ぎない。概念は恣意的である。それらの記号に自分の心を支配されるなというメッセージを禅宗は発してきたのかな。
言葉、単語というのは相手と共有できる概念であり、言語の誕生により、同時に自分と他人とのあいだでの概念のズレも生じた。「赤い」という言葉でもその色のイメージは人の数だけある。ということになるでしょうか。