お釈迦様の体得した悟りは、所を日本に移せば、修験道や神道における禊のようなものかもしれません。文明的なものを、禊ぎ、祓い、清めて、1匹の生物になりきる。言葉のない世界を生きる。
悟りと禊ぎは、同じものだから、天台宗では今でも千日回峯行が尊ばれるし、禅宗は言語を使うなというわけです。
さて、このように禊ぎや悟りを理解したときに、言語以前の人間の心や感情と、言語が生まれた後に形成される意識とを、別々のものとして扱うことが望ましいと思います。言語以前と言語以後とをうまく言い表す言葉を教えてください。
(ひとり一回だけにしますので、ご自身の言いたいことを、要点を明確にわかりやすく書き込みお願いします。)
非常に鋭いご指摘ですね。
人間の言語の場合には、どういうふうに言葉にするかを悩みます。
たとえば、何かがほしいときに、「欲しい」と素直にいうよりも、
「○○があったら、こんなかなあ」とソフトにいったほうが手に
入りやすいとか、「○○は、お嫌いですか」といってみるとか。
言語のコミュニケーションの複雑さは、心にある思いを、相手の
心にどうすれば伝えられるかというところもさることながら、
自分の希望をどうすればかなえられるのかという相手の操作・支配
を含むところ(政治ですね)ではないでしょうか。
そういうふうな下心でものごとを考えて言葉にすること自体が、
あざとくていやらしいことではありますね。
言葉=人為、作為とするとこんなのもありでしょうか。
老子はその後、インドに行ってお釈迦様になった、なんて伝説もあるみたいですね。