id:Hafizさんの仰るとおり、ジャーナリズムなどこの国にはもともと存在しないし期待すべきでもないという考え方には、私はまったく共感できないです。
というか、ジャーナリズムなどこの国にはもともと存在しないし期待すべきでもないって言っている奴が、日本のマスコミのジャーナリズムを殺してきたのでしょう。
ジャーナリズムを殺す動機を持ちジャーナリズムを殺してきた側の奴らが、ジャーナリズムなどはじめから無かったと言いたいわけですよ。
「ジャーナリズムなどなかった」と思いたい心情とは、マスコミをダメにした原因を作った側が、自分たちの犯罪的態度に対する責任から免れたい、無責任でいたいという、ただそれだけのことだと私は理解してます。そういう連中に対しては、卑劣だなとしか思いようが無いです。
「ジャーナリズムなどなかった」と思いたい心情は、ネオナチとかネット右翼とか歴史修正主義者とかの考え方にとてもよく似ています。
「そもそも問題など無かった」「そもそもそんなものは存在しなかった」ということにすれば、なぜ問題が起きたのか、誰が悪いのか、責任は誰にあるのか、どうすれば良かったのかという各論の議論、生きるものを殺してきた連中の責任についての議論に参加しなくて済みます。
責任はつねに自分以外のところにあって自分に責任はない、悪いのはつねに自分以外の誰かだという考え方しかできない。そういう無責任さに、「ジャーナリズムなどなかった」と思いたい心情の人たちとリビジョニストには共通点があります。そこら辺が、id:doumotoとかid:sidewalk01とかid:IlO10l0Ilとかid:master-ryuとかにはわかっていないのかもしれません。
念のために書いておきますが、私は「マスコミ=悪」だとは考えていません。
悪いジャーナリストや善いジャーナリストはいますが、マスコミに善いも悪いもありません。
ちょっと調べればわかると思いますが、記者や編集者レベルで見るとジャーナリズムを体現している人はマスコミの中に何人もいますし、ほぼすべてのマスメディアは、産経新聞社を含め、一枚岩ではありません。
大事なことは、マスコミという集団に限らず、どのような組織集団も個人の集合として存在している、ということです。
マスコミには、ジャーナリズムを体現する信頼すべき“個人”がいます。そういう個人を肯定し、個人を評価していくことによってのみ、死にかけたマスメディアのジャーナリズムは再生するのだと私は考えます。
あとそれから
http://q.hatena.ne.jp/1242353396/217059/
これついてですが、放送法というルールがあって、政府は法律に基づく場合を除き、放送番組について指図できず、政権の都合で放送局や番組をつぶすことはできない、というようなことは日本では常識に属することだと思います。
それと、細川内閣、椿事件という前例もあります。
細川内閣の樹立により、与党の社会党や小沢党(新生党)が政権交代で与党になりましたが、その時には社会党批判や小沢批判が大きくなったことはあっても小さくなったことはありませんでした。
椿事件は、非自民連立政権の細川政権のとき、細川政権の樹立をテッテーテキに批判していた産経新聞のスクープによって大騒ぎになった事件で、産経新聞の記事をもとに野党(自民党と共産党)がテレビ朝日に激しく抗議し、証人喚問を含めた国会追及によって細川内閣が追いつめられ、放送行政局長がテレビ朝日に対し放送免許の停止をチラつかせて放送局の責任を問うという、先生に怒られたいじめっ子がいじめられっ子同士で殴らせあって楽しむみたいな暗い事件でした。
椿事件とは要するに、テレビ朝日の放送批判に名を借りた細川内閣の正当性の根拠をめぐる批判だったわけで、政権交代が起きれば政権を批判する言論は強まりこそすれ弱まることなど無かったことを実証した事件でもありました。
そういう過去の事例に照らすなら、政権交代したことによって民主党批判がこの国からすべて消えてなくなるかのような疑問があたかも的を得た議論であるかのような前提で書いているid:siyabankaとid:australiagcは、なんて無知な人だろうと思った人は私だけではあるまいと感じた今日この頃です。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO132.html
第一章の二 放送番組の編集等に関する通則
(放送番組編集の自由)
第三条 放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。
id:Hafizさんの仰るとおり、ジャーナリズムなどこの国にはもともと存在しないし期待すべきでもないという考え方には、私はまったく共感できないです。
というか、ジャーナリズムなどこの国にはもともと存在しないし期待すべきでもないって言っている奴が、日本のマスコミのジャーナリズムを殺してきたのでしょう。
ジャーナリズムを殺す動機を持ちジャーナリズムを殺してきた側の奴らが、ジャーナリズムなどはじめから無かったと言いたいわけですよ。
「ジャーナリズムなどなかった」と思いたい心情とは、マスコミをダメにした原因を作った側が、自分たちの犯罪的態度に対する責任から免れたい、無責任でいたいという、ただそれだけのことだと私は理解してます。そういう連中に対しては、卑劣だなとしか思いようが無いです。
「ジャーナリズムなどなかった」と思いたい心情は、ネオナチとかネット右翼とか歴史修正主義者とかの考え方にとてもよく似ています。
「そもそも問題など無かった」「そもそもそんなものは存在しなかった」ということにすれば、なぜ問題が起きたのか、誰が悪いのか、責任は誰にあるのか、どうすれば良かったのかという各論の議論、生きるものを殺してきた連中の責任についての議論に参加しなくて済みます。
責任はつねに自分以外のところにあって自分に責任はない、悪いのはつねに自分以外の誰かだという考え方しかできない。そういう無責任さに、「ジャーナリズムなどなかった」と思いたい心情の人たちとリビジョニストには共通点があります。そこら辺が、id:doumotoとかid:sidewalk01とかid:IlO10l0Ilとかid:master-ryuとかにはわかっていないのかもしれません。
念のために書いておきますが、私は「マスコミ=悪」だとは考えていません。
悪いジャーナリストや善いジャーナリストはいますが、マスコミに善いも悪いもありません。
ちょっと調べればわかると思いますが、記者や編集者レベルで見るとジャーナリズムを体現している人はマスコミの中に何人もいますし、ほぼすべてのマスメディアは、産経新聞社を含め、一枚岩ではありません。
大事なことは、マスコミという集団に限らず、どのような組織集団も個人の集合として存在している、ということです。
マスコミには、ジャーナリズムを体現する信頼すべき“個人”がいます。そういう個人を肯定し、個人を評価していくことによってのみ、死にかけたマスメディアのジャーナリズムは再生するのだと私は考えます。
あとそれから
http://q.hatena.ne.jp/1242353396/217059/
これついてですが、放送法というルールがあって、政府は法律に基づく場合を除き、放送番組について指図できず、政権の都合で放送局や番組をつぶすことはできない、というようなことは日本では常識に属することだと思います。
それと、細川内閣、椿事件という前例もあります。
細川内閣の樹立により、与党の社会党や小沢党(新生党)が政権交代で与党になりましたが、その時には社会党批判や小沢批判が大きくなったことはあっても小さくなったことはありませんでした。
椿事件は、非自民連立政権の細川政権のとき、細川政権の樹立をテッテーテキに批判していた産経新聞のスクープによって大騒ぎになった事件で、産経新聞の記事をもとに野党(自民党と共産党)がテレビ朝日に激しく抗議し、証人喚問を含めた国会追及によって細川内閣が追いつめられ、放送行政局長がテレビ朝日に対し放送免許の停止をチラつかせて放送局の責任を問うという、先生に怒られたいじめっ子がいじめられっ子同士で殴らせあって楽しむみたいな暗い事件でした。
椿事件とは要するに、テレビ朝日の放送批判に名を借りた細川内閣の正当性の根拠をめぐる批判だったわけで、政権交代が起きれば政権を批判する言論は強まりこそすれ弱まることなど無かったことを実証した事件でもありました。
そういう過去の事例に照らすなら、政権交代したことによって民主党批判がこの国からすべて消えてなくなるかのような疑問があたかも的を得た議論であるかのような前提で書いているid:siyabankaとid:australiagcは、なんて無知な人だろうと思った人は私だけではあるまいと感じた今日この頃です。