「憲法・前文」「二章 戦争放棄」「三章 国民の権利と義務」「十章 最高法規」は本当に崇高なる理念の人類が誇るすばらしい法律だと思います。でも一つ、不思議なことは「二章 天皇」の章との整合性について
どうも合点がいかないのです。多くの憲法学者も、この辺りの論理的な説明が飛ばされているのではと思えるところがあるように思えます。そこでお尋ねは、「二章」との章との議論、論理性など明解に書かれた論文、
書籍を教えてください。
「二章 天皇」の章との整合性について
どうも合点がいかないのは私ものです。多くの憲法学者も、この辺りの論理的な説明が飛ばされているのではと思えるところがあるように思えますも、そう思います。
「二章」との章との議論、論理性など明解に書かれた論文、
書籍を教えてくださいとありますが、下記のURLをご覧になって下さい。
お役にたつと思います。
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6-%E5%BE%A9%E5...
「二章 天皇」->「一章 天皇」の間違いでは?
憲法学者でこのあたりのことが書かれているのは、以下の本です。
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ありがとうございます。
ご指摘の「章」の間違い、ありがとうございます。
日本国憲法の第二章は、戦争の放棄に関する規定であって、天皇に関する規定ではありません。
質問者様が仰る「多くの憲法学者も、この辺りの論理的な説明が飛ばされているのではと思えるところがある」という言葉が指している論文・著作、憲法学者が、具体的に誰の何という論文を指しているのかは不明ですが、憲法学では、質問者様の疑問点を含め、日本国憲法の天皇条項に関する考察が普通に述べられています。以下はその一例。
新版現代法律学講座. 5 憲法 青林書院 佐藤幸治著
これ以外にも、憲法学の教科書を読めば天皇に関する記述は普通に読むことができます。
ちなみに前記佐藤論文ではこう述べています。
(2) 象徴としての天皇
憲法は、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」(一条)と規定する。「象徴」とは、無形の抽象的な何ものかを、ある物象を通じて感得せしめるとされる場合に、その物象を前者との関係においていうものである。鳩が平和の、ペンが「文」の象徴とされるがごときがその例である。したがってこの「象徴」は元来社会心理的なものであって、それ自体としては法と関係を有しうる性質のものではない。にもかかわらず、「象徴」関係が法的に規定されることがあるのは、基本的には、右の社会心理の醸成・維持を願望してのことである。西ドイツ憲法二十二条が「連邦“国旗”は黒・赤・金(色)である」(傍点筆者)と定めるのはその一例であるが、それは、そのような特定のデザインをもつ「国旗」を通じて国民が国家を感得し、国民の統合的機能を果たすことを期待してのことである。けれども、そのような感得の効果が生ずるかどうかは法の射程外の心理上のものであり、また、象徴するものがあってはじめて象徴されるものが存するということではない。このように、「象徴」の観念そのものには法的の意味は無いのであって、「象徴」とされることに何らかの法的効果が発生するとすれば、それは別に法がとくに定めた結果であり、「象徴」とされるということから当然に流出する効果ではない。
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(3) 天皇の地位の根拠
憲法一条は、前段に、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」といい、これをうけて、後段において、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と規定する。この後段にいう「この地位」とは、天皇が象徴としての役割をもつことを一つの地位とみて、その地位を指すものと解される。このような地位も「主権の存する日本国民の総意に基づく」とは、日本国憲法が民定憲法たる以上当然のことであるが、本条がとくにこの点を明示するのは、明治憲法の神権的国体観念を排斥する趣旨を明らかにしようとするためのものと解される。
佐藤憲法学の天皇象徴論にそって考えるなら、「象徴」という観念に法的意味は無いのですから、法的な意味の無い天皇の象徴性と、法的意味を持って規定されている憲法諸規定とは、そもそも整合するはずがありません。整合しなければならないという前提自体が間違い、ということになります。
逆に、法的意味がある、と考えてしまうと、象徴天皇には国民の生存権を停止させる権限のような法的地位があるというような解釈を残してしまい、かえって国民主権との整合性がとれなくなってしまいます。
ではなぜ天皇に関する規定が日本国憲法に存在するのかといえば、佐藤憲法学の「主権の存する日本国民の総意に基づく」の文言解釈で明らかなように、大日本帝国憲法の神権的国体観念を排斥する趣旨を明らかにしようとするために規定されていると考えることができると思われます。
したがって、天皇条項は、国民主権、民主政、平和主義などの憲法原理やそれを実現するための諸条項とはなにも矛盾しませんし、整合しています。むしろ、天皇条項が日本国憲法の中でファシズムや軍国主義の防波堤のように存在し、ファシストや軍国主義者による天皇利用を抑止しているからこそ、国民主権、民主政、平和主義という憲法原理が維持されている、と考えるべきでしょう。
国民主権を担保するために、かつて神であり絶対的な統治者であった天皇は象徴となり、民主主義を実現するために、天皇の統治権を否定して天皇は象徴となり、平和主義を実現するために、天皇の統帥権を否定して天皇は象徴となっています。このように憲法の天皇条項は他の規定と整合しています。
ありがとうございます。
具体的な例は挙げませんが、いずれの憲法学者の話を聞いていても
この整合性というか矛盾についての説明が聞けません、のでそう申したまでです。
日本国憲法と呼ばれているものは、実は米軍は太平洋各地の占領したところ、フィリピンなど
植民地にみな同じものを与えているのです。
共通しているのは、武装の放棄です。フィリピン旧憲法にも日本憲法にも同じ項目があるの
ですが、その意味は、植民地民は自警団などを結成してはならず、武力で宗主国に対抗してはならないという意味です。
9条の意味はそういうことなんです。
天皇は日本国固有の条項なので、植民地憲法とは整合性がないのはしょうがないです。
フィリピン植民地憲法との類似は憲法学者なら誰でも知っているのですが、それを指摘する
のは現代日本ではタブーなんです。
ウソと思うなら、実物を見てみてください。英文ですぐに見つかります。
ちなみに、今日のフィリピンでは、その旧憲法はすでに改正廃棄されています。
米軍は日本も独立後はすぐに廃棄するとみていたようです。
ありがとうございます。
非常に貴重なご返事いただきありがとうございます。
それにしても近辺の図書館を当たりましたがどこにもなしでした。
こうした大事な問題が議論が尽くされない学会というのは何なんでしょうね。