堆積平野ができることについての質問です。


関東平野の秩父山地に近い比企丘陵に二ノ宮山があります。

(西側)の秩父山地は200万年ほど前から隆起を続け、東側の丘陵や台地部は沈降して、西部と東部の標高差が維持されたのであれば、秩父山地の土砂が関東平野を埋めていくのはわかるのです。
その埋め方がきれいです。しかし、元が山で谷もあるようなところを、きれいに平野状に埋めて、山頂部だけを残すには膨大な土砂が必要です。関東平野西部を形成するには、相当な山塊がその土砂を供給しなければならないことになります。秩父はそんなに大きな山はありません。秩父の浸食が土砂の供給源であるならば、今よりも遙かに高い山(台地)が必要です。秩父山地の側の隆起が源になったのであれば、その隆起量はどのくらいなのでしょうか。
エベレストなども隆起でできたそうですので、隆起というのは巨大なものの場合があるのはわかりますが、秩父山地の隆起量は、[小山の元になる山頂の浸食形成が終わった時から]何メートルくらいあったと推察されているので しょうか。

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  • 終了:2010/06/24 23:40:03
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回答2件)

id:suppadv No.1

回答回数3552ベストアンサー獲得回数268

ポイント35pt

簡単に言えば、関東ローム層は火山灰ですので、富士山から飛んできた火山灰によって出来ています。

その下の方の地層では、貝などが見られることから判るとおり、海底の隆起によっています。

id:hathi

済みません。

suppadv さんのご回答は、秩父側に積もった関東ロームが、関東平野側に流れるので賄ったので、

(隆起と沈降の)東西の高低差がそれほどなくても、関東平野のへこみを埋めるのに十分だったろうということでしょうか?

この質問としては、秩父山地の隆起量は、200万年前を基準にしたときに何メートルくらいなのかというつもりなのですが。

2010/06/19 01:22:17
id:hierophant No.2

回答回数4ベストアンサー獲得回数1

ポイント35pt

http://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2005/pr20050426/pr2...

日本海拡大のとき(2000万年~1000万年前)に海が割れてそこに堆積したものが,ここ200万年に日本が圧縮されるようになって,再び地表に出てくるようになった(隆起した)のが比企丘陵や二ノ宮山であり,その山頂は,隆起以降(少なくとも200万年前以降)において,丘陵面が斜面侵食によって削り残されたものと思われます。

以前質問された,大槌島のような「堅く,古い山」の周囲を河川堆積物が埋めているわけではないでしょう。

関東山地の隆起量については,貝塚1998「発達史地形学」やOhmori1978などで見積もりが行われており,正確な数値は忘れましたが,1m/kyr(100-200万年間で1000m)程度の隆起量と推定されています。隆起した量そのままが山地の高さではなく,侵食によって山頂高度は低下します。

  • id:hathi
    私に色々な勘違いや単純な思い込みがありました。

    現在も、何がなにやらわからずにいます。 少しづつ調べたいと思います。

    関東平野が平らになる前は大きな凹ができていて、凹ができた原因が日本海拡大であるらしいことはわかりました。その前は、日本列島が集合した時なのでしょうが、そのときには一応平坦に近い形状だったと推察されるので、日本海拡大時にへこんだと言われるのでしょうね。
    この巨大でかつ4000m、5000mの深さのくぼみを埋めたのは、当時の造山運動で隆起中の山地の浸食物や当時のテフラ等なのでしょう。その後の第四紀にも広域の隆起や部分的な隆起や沈降、傾斜の方向の違い、海面の上昇あるいは下降の繰り返し、乾燥や多湿の繰り返しが何度もあって、さらにその間に何度か一時的な火山活動のテフラもあり、おおむね現状のような形になったのでしょう。

    関東平野の現状を見ても、単純に平らではなかったです。高層ビルやハイキングコースから東京・新宿方向をを見ると一見平らに見えますが、歩いてみると起伏が多く崖や坂があちこちにあります。地図を見ると○○坂上、△坂下、□□坂、○○山、△△丘というようなところも多いです。起因や創世紀を異にする多数の丘陵や谷地、おぼれ谷が本当に細かく地形を作っていて、現在の東京湾の半分近くまでそうした起伏に富んだ地形が隠れていることを知りました。

    現在も隆起量、沈降量は場所によって大きく異なっていること、一方的に隆起したり、一方的に沈降しているのではなくて、数万年、数十万年程度の短期間でも、結構波動しているような動きをしているので、関東山地が隆起した量を単純に何メートルと言うことは誤解の元であるとも思いました。

    今平野(平坦部)にポコポコ飛び出ているところは、ほとんど第四紀の堆積物で、その下には新第三紀の堆積物があり、場所によって平野(平坦部)でも形成時期が異なること(大体は山地に近いと古く、海に近い低地は新しい)、そこに堆積した後で海面が下がり比高が大きくなった時に大きく浸食されて谷が形成され、大きく傾斜方向が変わったことや下流部分の隆起があったことで河川の流れの方向が大きく変わったり、河川の争奪が生じて、孤立丘ができたのではないかと思います。氷河の影響がとても大きいことも知りました。驚きです。

    平地部での河川氾濫による河道の変更や蛇行河川の屈曲部が残されるイメージでは、これらの丘・小山ができるとは思えません。これが元々の疑問の出発だったのですが………
    確かにそんな単純なことではできないけれど、起きた事柄も、決して単純でわかりやすいことではなかったようです。

    府中市地域防災計画(平成20年修正) の資料のp9/第6図に三浦層(上総層ではないか?)上部の等深線図が描かれ、その中に現在の浅間山を形作ったと思われる北東に荒川低地に向かって延びる地下50mの深さの2本の谷筋がでています。現在の多摩側の流れる方向とは直交しています。
    その後谷筋は埋まって平地になり、古多摩川も荒川低地に向かう北東ではなくて、おおむね真東になったのでしょう。
    府中市の浅間山もある意味では山頂部だけが残って周りが埋まったのには違いないですが、最初私が思っていたような高い山の山頂部ではなくて、比高100m程度の残丘の下の方が堆積物で覆われたと言う程度のもののようです。
    http://www.city.fuchu.tokyo.jp/shisei/kekaku/chikibousai/TiikiBousaiPlan_H20/files/siryo_1bu.pdf
    http://www.kubota.co.jp/urban/pdf/23/pdf/23_2_3.pdf
    http://www.tokyo-geo.com/tikei/tishitu2.htm
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B4%E6%96%B0%E4%B8%96
    http://staff.aist.go.jp/msk.takahashi/Subsurface.html
    おそらく、関東平野は非常に深いところまで堆積物が詰まっているが、それは非常に古いもので、第四紀にできた(新第三紀鮮新世を含む260万年前まで)現在標高250メートルにある多摩丘陵を含め、それ以下の丘陵や丘になっているところ、谷筋に見えるところなどは、ごく表層の堆積物とその浸食と再堆積が、海成、河成、風成(テフラの多く)を繰り返したものだろうと、現時点で思いました。


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