国境の問題がおきていますが実際ニッポンは、東西南北どこまで戦争で他国に進んでいったのですか

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回答4件)

id:matsunaga No.1

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ポイント23pt

そもそも日本自体が戦争で勝ち取られたものですよね。

神話扱いですが神武東征で九州からヤマトに進軍してその地のナガスネヒコを征服して「建国」しました。

その後、大和朝廷は戦争によって東西に領土を拡大します。ヤマトタケル伝説では関東から九州中部あたりまで制圧しています。

飛鳥時代には朝鮮半島南端あたりにも進出していた記載があります。

奈良時代には九州南端から関東あたりまでが朝廷の支配域で、征夷大将軍とはそもそも東北地方の蝦夷を征するための役職です。

旧国名のあるところは一応この時代の日本領といえますが、西は壱岐・対馬・大隅から東は出羽・陸奥まで(出羽設置は遅く、東北地方東側は全部ひっくるめて陸奥扱い)でした。

その後、ようやく津軽方面まですべて制圧されることになります。

豊臣秀吉は、明国を領土にしようとして朝鮮出兵を行ない、平壌くらいまで攻め込みますが、敗退していきます。

江戸時代に入って、島津氏が軍事力を背景に独立国であった琉球を支配下に置きますが、貿易のために表向きは清国に朝貢する独立国の体を保たせ、実際には島津と清との両属となっていました。これも軍事制圧といえるでしょう。

明治維新後、新政府は琉球を琉球藩とし(独立国から格下げ)、その後琉球処分で沖縄県とします。ここで琉球王国は完全に滅亡します。

また、アイヌが住んでいた蝦夷地を北海道として日本に組み込みます。最初は樺太を版図に入れますが、これはロシアとの千島樺太交換条約で入れ代わります。

その後、日清戦争で台湾を日本帝国領とし、日露戦争を戦い、韓国併合で朝鮮半島も制圧します。

満州国は別の国として建国しました。その後、日中戦争・太平洋戦争と続き、日本軍はインドから太平洋に及ぶ広大な地域へと進出していきました。

戦後はその多くの領土を失います。


まあそういうわけですので、日本そのものが戦争で作られ、すべての領土は戦争によって勝ち取られたと言っても過言ではないでしょう。

ちなみに、固有の領土という言葉は曖昧語で、諸外国には通じないことばです。

http://q.hatena.ne.jp/1249657839

id:masanobuyo No.3

回答回数4617ベストアンサー獲得回数78

ポイント22pt

第二次世界大戦時における日本の最大領土は以下のとおりです。

内地(ほぼ現在の日本領土)

朝鮮

関東州

膠州

南洋群島

第二次世界大戦での占領地

1870年から1942年までの勢力版図昭和16年(1941年)にイギリスやアメリカ合衆国に対して宣戦布告を行い太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発、 日本は東亜新秩序を大義名分とし大東亜共栄圏の建設を目標に掲げ、アジアに本格的に進攻し占領地を拡大していく。

フランス領インドシナ(1940年 - 1945年)

グアム島(大宮島)(1941年 - 1944年)

ウェーク島(大鳥島)(1941年 - 1945年)

イギリス領ギルバート諸島(1941年 - 1943年)

イギリス領香港(1941年 - 1945年)

イギリス保護国サラワク王国(1941年 - 1945年)

イギリス保護国北ボルネオ(1941年 - 1945年)

イギリス領マラヤ(1942年 - 1945年)

イギリス領ビルマ(1942年 - 1945年)

イギリス領インド(アンダマン・ニコバル諸島のみ)(1942年 - 1945年)

イギリス領ソロモン諸島(1942年 - 1943年)

オランダ領東インド(1942年 - 1945年)

アメリカ自治領フィリピン(1942年 - 1945年)

オーストラリア委任統治領ニューギニア(1942年 - 1945年)

イギリス・オーストラリア・ニュージーランド共同委任統治領ナウル(1942年 - 1945年)

アラスカ州キスカ島(鳴神島)、アッツ島(熱田島)(1942年 - 1943年)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9...

id:yam3104 No.4

回答回数499ベストアンサー獲得回数25

ポイント22pt

自国領としては、南西は台湾(1895~)、北西は朝鮮半島(1910~)が日本量でした。「日韓併合」というのは、併合当時の朝鮮半島に「大韓帝国」という国があって、それを日本(大日本帝国)が併合したからです。その後は満州事変(1931)を機に朝鮮半島の更に北西には「満州国」が立てられましたが、これは成立経緯もあって「日本の傀儡国」とも言われました。

北は戦争終結当時には南樺太と千島列島(今の北方四島より北も含む)、までが日本領でしたが、これは1875年明治初期の樺太・千島交換条約によるものです(より詳しくはここも参考になるかと思います)。

(なお1920年に前後してシベリア出兵がありましたが、この頃の日ソ関係というのも非常に複雑で回答の主旨からは外させて頂きます。ただ、北へは極東シベリアまでは進出していたとは言えます)

現在の日本領とこれらの地域を土台に大日本帝国がどこまで進出していったかを考えると、大東亜共栄圏は避けては通れないでしょう。要は日本の西(中国大陸)~南(東南アジア)を日本の影響下に置いて欧米列強に対抗しようと画策した訳です。「東西南北どこまで戦争で他国に進んでいった」という事に関しては、シベリアを除けばほぼこの項目に書いてある通りだろうと思います。


日本・満州国・中華民国を一つの経済共同体とし、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として位置付けるものと考えられており、「大東亜が日本の生存圏」であると宣伝された。ただし、「大東亜」の範囲、「共栄」の字義などは当初必ずしも明確にされていなかった。


大東亜共栄圏は、アジアの欧米列強植民地をその支配から独立させ、日本・満州・支那(中国)を中心とする国家連合を実現させるものであるとされた。大東亜共同宣言には、『相互協力・独立尊重』などの旨が明記されている。これを、現在の欧州連合のような対等な国家連合を志向したものとする解釈もある。


一方で、大東亜共栄圏を構成していたフィリピン第二共和国、ベトナム帝国、ラオス王国、ビルマ国、カンボジア王国、満州国の政府と汪兆銘政権(中華民国)は、実際にはいずれも日本政府や日本軍の指導の下に置かれた傀儡政権または従属国にしかすぎず、実質的には日本による植民地支配、あるいは非対称な指導と被指導の関係を目指したものに過ぎなかったとする意見もある。特に、フィリピンとビルマには既に民選による自治政府が存在しており、日本軍の占領下に置かれたことで実質的な独立からはむしろ遠ざかったという見方もある。日本軍占領下の共栄圏構成国にあっては選挙等の民主的手続きは一切行われず、政府首脳には日本側が選任した人物(つまり、親日的、協力的な人物)が就任していた。これらについては戦時下故の過渡的な措置だったとする反論もある。


また、1943年(昭和18年)5月31日に決定された「大東亜政略指導大綱」ではイギリス領マラヤ、オランダ領東インド(蘭印)は日本領に編入することとなっていた(ただし蘭印については、戦争末期、1944年9月7日の小磯声明で将来的な独立を約束した)。特にイギリス領マラヤの一部だったシンガポールは日本編入を見越して日本式に昭南特別市と改称された。日本の同盟国であったヴィシー・フランスの植民地インドシナ連邦(仏印)では、日本軍占領下(仏印進駐)における植民地支配をフランス本国でヴィシー政権が崩壊したのちの1945年(昭和20年)3月9日まで承認していた。


つまり中国大陸とインドネシアまで東南アジアほぼ全域、インドやオーストラリア、ニュージーランドにも迫ります。計画としてはこれらの地域にも進出したかったようです。

google:大東亜共栄圏:imageだと、その範囲が分かりやすいかと思います。

  • id:seble
    第一次大戦当時、同盟国だった英国支援のために地中海へ魚雷艇が派遣されたとか何とか、、

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