人は皆個性があり、見た目だけで決めるのはおかしいと自分は思います。
(a)大人の場合
人は目から多くの情報を得ます。
人生経験を積めば積むほど見た目での判断能力も高まり、
その判断がおおよそ外れることはなくなってきます。
年長者が長年積み重ねてきた知識や経験を元にした判断では、
若者とのジェネレーションギャップを埋められはしませんので、
見た目だけでの判断はしないようになりますが、
あまりにも奇抜な場合は引いてしまいますので、
若者の側からもある程度歩み寄ってもらう必要があったりはします。
(b)子供の場合
動物には身を守るために、
「見たことも無いようなものを恐れる」という習性があります。
子供が見た目で相手を判断する基準は見慣れているかどうかにあります。
成長に従って慣れてくるものですが、
子供のうちはある程度しかたのないことであったりします。
どちらの場合も生物として生きていくために重要な判断基準になってますので、
「だけ」になりがちなのはある程度しかたのないことで、
これを止めることは無理に近いです。
それはそのとおりですけど、あからさまに怪しい外見の人物が「実は私、すごく謙虚で礼儀正しいんですよ」なんて言ってもよりいっそう怪しまれるだけでしょうから、限度ってものはあるかと。それこそTPOに応じた。
ちょっと発想を変えて、視覚障害者の方に好印象を持ってもらうにはどうすれば良いか、考えてみると面白いかも。これだといくら上辺を取り繕っても相手には見えていないわけだから、全く意味がありません。となると、言葉遣いであるとか物腰であるとか、人間性の方面で差が付くことになります。そういった方向について配慮できる人ならば、外見は決定的なマイナス要因にはならないのでは?損することは多少あるとしても。
これが思いっ切り突き抜けた才能を持っている人だったら、多少変な格好をしていても「あれも一種の才能だよね~」とか何とか言って許されちゃう。ずるいよね~(凡人の僻み)。しかしただの凡人じゃそうはいかないので、世間一般常識を勘案した格好をするか、野望を胸に秘めつつ努力するか、まあその辺に落ち着くことになるかと。
凡人が格好でぶっ飛び過ぎると、周囲からは奇異の目で見られ、知人からも「あいつもとうとうブチ切れたか?」くらいに思われて終了ってのが関の山。それでも認められてしまうような人になる勢いで努力するのは建設的だけど、そんな意志もなくてただ認めてくれって言うのは大抵ガキのわがまま。
コメント(1件)
例えば茶髪や髪を染めるのは異性に見た目で判断してもらたいからで、会社の面接になると茶髪だからと見た目で判断するなと言うのはただのご都合主義だと思う。
もちろん見た目だけでなく内面でも人を判断するべきだけど、他者からどのように見えるか思われるかということがわかっているにも関わらず自身の内面に固執するのは若い人に多い間違いだと思う。
私が学生の頃カトリックの神父が人の「真性」という話をしてくれた。「真性」とは本質でありその人を決める物。神父は「あなたの真性は何ですか?」という問いかけをした。
あなたの自分(真性)とは、内面や個性であるという考えもある。でも一方で社会から見たらあなたを形付けるのは、あなたが周りからどう見えるかどう思われるかでありそれもやっぱりあなたの真性だと思う。
見た目だけで判断するのは間違い。だからと言って見た目を気にしないのも間違いだと思います。