匿名質問者

「仏教徒である(必ずしも熱心ではなくとも)こと」と、「無神論者であること」や「不可知論者であること」とは、矛盾するでしょうか。

どう考えたらよいか皆目わからず、質問しました。仏教といっても幅広いでしょうけれど。
仏教でも、①祈祷により願いが叶う、②死んだら阿弥陀如来が救いに来て極楽浄土へ行けるかもしれない、③悪いことをすると地獄に堕ちる、という信仰ならば、無神論者とは明白に矛盾します。
しかし、「すべては無である、人生は夢幻のようなもの、それを悟りなさい」なら、矛盾しないみたいにも感じます。
或いは、仏教とは、不可知論に近いのでしょうか。
私の周りは、一応仏教徒、なんとなく仏教徒という状態です。
  (仏教を本格的に勉強すればいいのですが、どこから手をつければよいかも、
   よく分からず、ここに質問しました。)

  ※ キリスト教信徒である、種々の神道の信者であるいうことと、無神論者であることは
    相容れないということは、すぐわかるのですが。
   (また、不可知論者であることとも相容れないと思っています。)

回答の条件
  • 1人5回まで
  • 登録:
  • 終了:2014/04/15 19:50:04

回答5件)

匿名回答1号 No.1

仏教でいうブッダは単なる宗教指導者です(まあマホメットもイエスもそうなのですが)
エホバ、アフラマヅダ、ヒンドゥーのシヴァの神、日本の八おろずの神などとは違います
イエスは神の子なのでキセキをおこしたので半分神かな。
 
①祈祷により願いが叶う、②死んだら阿弥陀如来が救いに来て極楽浄土へ行けるかもしれない、③悪いことをすると地獄に堕ちる
については宗派により立場が異なります。原始仏教にはそのような考えはなかった、むしろヒンドゥー教のそういう教えに反発してできたのが原始仏教ですし、現在もその3つを必ずしも満たさない仏教宗派があります(禅宗など)。が、子供や教育の無い人、物わかりの悪い人には「方便」として他の有神論宗教と同じ行動規制をかけて悟ったのと同じ行動をさせようとする場合もあるので、禁止されてるわけでもないです。
現在は学問として見た場合仏教の本質は哲学であるという考え方が増えてきています
 
日本は歴史的経緯で、仏教と神道があわさったため「なんでも死んだら(死ななくても伝来して超越的に存在しさえすれば)社をたてて神として祀ることができる」という神道の万能性により仏教の宗教指導者である釈迦・菩薩のみならずダルマ、ジゾウなども神扱いみたいになっちゃってるんですけどね。簡単なところでは、「七福神」の来歴をしらべればそれらをどの宗教で祀ってもおかしいということがすぐわかります。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E7%A6%8F%E7%A5%9E
これを平気で祀っちゃうので、日本は排他的有神論ではない。=無神論なの?と外国人には見られます。
結局無神論と原始仏教とは矛盾しないはずのものです。今の仏教の宗派の一部は矛盾してみえるかもしれません(新興宗教にいたっては排他的有神論として仏教を採用するところもでてきている)。というのがお応えになるとおもいます。

他3件のコメントを見る
匿名回答1号

http://q.hatena.ne.jp/1390114219 ヨガや瞑想とならべられていることもあります。

2014/04/11 02:24:21
匿名質問者

どうも有難うございました。

御免なさい、「ゴッドレイン」と「ゴッドオムニポテント」というのがわかりませんでした。ちょっとググったのですが、やはりうまくヒットしませんでした。教えてくださると嬉しいです。

禅ですが、近所の禅寺に、日曜など通ってみるのが、早いかもしれないと思いました。たしかに、ヨガや瞑想とどう違うのか、考えたことすらありませんでした。

2014/04/12 19:00:48
匿名回答2号 No.2

浄土真宗ですが、他の信仰が一切禁止されてたり。

浄土三部経のうちのひとつである阿弥陀経しか詠んでませんが、そこでは極楽や神々について語られてるので、無神論ではいられません。

ただ、宗派や住職それぞれの考え方で違った解釈があるのも事実だと思います。

他3件のコメントを見る
匿名回答6号

仏教の中では浄土真宗と日蓮正宗が過激で、この二つは他派の仏教でも認めませんね。うちは日蓮正宗ですが、「観光はいいけど参拝は駄目」と言われたことがあります。

2014/04/11 10:59:32
匿名質問者

有難うございました。
浄土真宗もお東、お西や高田派、それ以外にも・・たくさん宗派があるように思いました。
実家には真宗10派というカレンダーがあります。
http://www.d1.dion.ne.jp/~mitinori/honganji/sosiki.html
浄土真宗は激しいのですね。浄土宗とは名前が似ていますが、だいぶ違うのですね。
わたしの曽祖父は東だったのですが、子供には、浄土真宗(西なども含む)との縁組しか認めなかったらしいです。ただし、浄土宗は特例なのか、認めたようでした(法然上人は、親鸞上人のお師匠さんですし)。

日蓮宗にもいくつかあると思いますが、日蓮正宗は厳しいのですね。

2014/04/12 15:09:30
匿名回答3号 No.3

一種の哲学者としてのブッダの教えは、むしろ不可知論ですし無神論ですね。

イエズスなんかもそうですが、歴史的背景を考え合わせれば、彼らは「迷信と権力機構の一部としての『宗教』に対抗する、善と智を志向する実存哲学者にして社会的ゲリラ」としても括れます。


ブッダの"刺さった矢を抜く抜かない"の譬え話なんかにも、彼の不可知論・無神論的傾向と「生身の人間の、いまここでの善と智」への志向が窺えますね。


なんだかんだで、ブッダ自身の「智」と「仏教」という宗教は、分けて歴史学・宗教学の対象として観たほうが面白いと思います。

匿名質問者

仏教は哲学みたいな感じもしています。
無とかいうと、無神論につながり、虚無主義にもなりそうな感じがします。
そういえば、虚無僧という人がいますけれど、ニヒリストとはちがうんだろうと思います。

虚無主義なのだけど、善と智を志向するという点で、やはり宗教の範疇なのだろうか、と思いましたが、
この考え方はおかしいでしょうか。
虚無主義を貫くと善悪の区別もつかなくなりそうなのですが(私の感覚では)、
それでも、善や智を求め、己を律するのが、仏教が宗教であるところなのでしょうか。

2014/04/09 19:05:56
匿名回答4号 No.4

一般に無神論者と言った場合は宗教を信じないという意味なので、仏教も含まれるでしょう。仏教と一言で片付けていますが、広義にはヒンズー教も入ると思います。
悟りも宗教のうちでしょう。全ては無であるという事を信じる宗教です。
宗教と哲学は重なっていますから、無理に分けて考える必要もないのでは?
ですから、仏教徒であれば仏教という宗教を信じているのですから無神論者ではないと思います。

匿名質問者

広義にはヒンズー教も入るというのは、そんな感じもしました。ヒンズー教は土着的で、
純粋な仏教と、もっとも対置されるような気がします。

2014/04/09 19:01:33
匿名質問者

質問者から

匿名質問者2014/04/09 20:48:39

仏教の件でいろいろなご指摘をいただきまして有難うございます。

 >①祈祷により願いが叶う、

 >②死んだら阿弥陀如来が救いに来て極楽浄土へ行けるかもしれない、

 >③悪いことをすると地獄に堕ちる、

に付け加えるとすると、

 ④他の世界もある

  (⇒三千世界とか???、金剛界と胎蔵界とか???、天とか人間界とか畜生道とか???)

 ⑤輪廻転生とか、解脱の話

が考えられます。

儒教が怪力乱神を語らないという不可知論の姿勢なのに対し、仏教は、阿弥陀様とか、輪廻とか、祈祷や曼荼羅とか、金剛界・胎蔵界とか、語っております。原始仏教ではそんなものはなかったのかもしれませんが(原始仏教も何も、勉強しておらずよくわかりませんけれど)。

匿名回答5号 No.5

 仏教そのものが釈迦本人の語った事と、後の大乗仏教などで変遷したものがあるので、その両者についての区別も必要になります。
 しかしいずれの立場でも仏教では明確に輪廻、生まれ変わりは肯定しています。
 無記であるとする経もありますが、釈迦は人の性質の違いによって別々に法を説く、所謂対機説法を行ったので、別の原始経典、法句経「ダンマパダ」には自分が幾度も生まれ変わったと記されています。

 大乗でも輪廻はあるとされ、何度も生まれ変わって修行することで菩薩となり、如来にもなれると華厳経には説かれています。

 この事実から不可知論者とは明確に違うと言えます。
 古代インドにも不可知論と同様の思想を説いたサンジャヤ・ベーラッティプッタという者もいて、それは仏教では外道として否定されています。

 更に原始経典でも神は居ると説かれています。
 それは多くの人が言うからであるとか、或いは神話的に世界の創造主の梵天さえも法を人々に説く事を要請する立場として登場する事でわかります。

 大乗仏教では神は完全に目覚めた存在である仏陀、如来よりも劣った存在として小間使いのような立場にさえ立たされています。
 
 仏教が他の宗教と違う一番の特徴はそこにあるといえるでしょう。
 修行次第で人が神以上の存在にまでなれるという、宗教の中ではかなり特殊な考え方をしています。
 同種の修行体形であるヨーガでさえ、神々と等しくなる事を目指しているのと比べても特殊な存在感があります。
 神は存在するけれども自らの教祖より以下の存在であり、自ら修行する事でじぶんもそこまでになれるというわけです。

 神を信奉するのが宗教という定義があるならば、仏教は宗教ですらないといえるでしょう。
 一番近いのはやはりヨーガなどの修行体形ですが、むしろ思想的には漫画の「ドラゴンボール」のように修行して神よりも強い奴になるというような、突き抜けた人間修養の体系というしかないようです。

他1件のコメントを見る
匿名回答5号

そのような捉え方で良いと思います。
仏教そのものが、かなり多岐に分裂しているのでわかり難いのですが、浄土教の経典にさえ阿弥陀仏や浄土を観想する密教的な修行法が記されています。
他の宗教のように信じる事だけが重要なのではなく、常に修養が求められるのが仏教の特徴といえます。

2014/04/10 10:55:51
匿名質問者

有難うございました。
「信じる、受け入れる」という点で、哲学していくこと、議論して納得しないと進めないということとは一線を画すと、そういうふうに理解しました。つまり、「哲学」という範疇ではないですね。
「常に修養が求められるものである。そうでないと解脱の境地ではないのだ」と
まずは整理し、理解いたしました。

2014/04/10 21:13:56
匿名質問者

質問者から

匿名質問者2014/04/13 09:57:58

浄土三部経のうちのひとつである阿弥陀経では極楽や神々について語られてるということでした。そういう人格神のような方(「神」よりは格上なのでしょうけれど、という意味では超越者と呼んだ方が誤解はないかもしれません。要するに、我々を裁いたり、見守ってくれたりする存在です。あるいは、我々に対し無関心であったり、気まぐれな存在であったりという考え方もあるかもしれませんが。)を認めているとい意味で、無神論(人格を持った超越者は居ないという考え)とは馴染まないと理解しております。

阿弥陀様や浄土を想起するというのは、解脱するための「方便」という位置づけなのか、どうか、そこも悩ましいのですが、この点を考えると深みにはまりますね。

また、仏教は多岐に分かれており、宗派で異なり、よって、仮に、勉強するなら、最初にどこにターゲットを置くかも重要だと、強く感じました。

コメントはまだありません

この質問への反応(ブックマークコメント)

「あの人に答えてほしい」「この質問はあの人が答えられそう」というときに、回答リクエストを送ってみてましょう。

これ以上回答リクエストを送信することはできません。制限について

回答リクエストを送信したユーザーはいません