匿名質問者

ドイツ革命:ドイツ帝国は、複数国の連合体だったかと(王国が4つ、大公国や公国などが多数。自由都市3つ。帝国直轄領1つ。)思います。プロイセン王国内のキール、ベルリンで起きた革命で、プロイセン国王の退位や、その君主制廃止はわかりますが、ドイツ皇帝を退位させるのは、越権のようで、理屈に合わないと感じましたが、どう考えたらよいでしょう。ベルリンにあった帝国議会議員の判断ということでしょうか。又、プロイセン政府は、プロイセン国王退位につきどういう態度だったのでしょう。兎に角、ベルリンには帝国政府とプロイセン王国政府があり、君主の立場も皇帝と国王の2つがあったと思います故。


又、バイエルン王国でも革命があり、君主制廃止ということです。しかし、他の君主国ではどうであったのでしょうか。武力蜂起や大デモで、君主制廃止を強制されたのでしょうか。ドイツの一部に留りつつも君主国を維持する道も、ドイツから離脱して君主国として残る道もあったと思いますが。

なにか参考になるものがあればお知らせください。

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  • 匿名質問者
    匿名質問者 2015/05/11 01:55:28
     ザクセン王国や、ヴェルテンブルク王国はそれなりのまとまりと歴史がありましたし、国民(臣民)のまとまりもある程度あった国もあるかと思います。ヘッセン大公は国民に慕われていたようです。
    ヘッセン大公国は、英国王室と縁戚であり、君主国がいきなり減るのは、好ましくなかったと思います。
    また、小国分立が、英仏の利益だと思います。

     ウイルソン大統領の民族自決主義の影響でしょうか?

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