ドイツ革命:ドイツ帝国は、複数国の連合体だったかと(王国が4つ、大公国や公国などが多数。自由都市3つ。帝国直轄領1つ。)思います。プロイセン王国内のキール、ベルリンで起きた革命で、プロイセン国王の退位や、その君主制廃止はわかりますが、ドイツ皇帝を退位させるのは、越権のようで、理屈に合わないと感じましたが、どう考えたらよいでしょう。ベルリンにあった帝国議会議員の判断ということでしょうか。又、プロイセン政府は、プロイセン国王退位につきどういう態度だったのでしょう。兎に角、ベルリンには帝国政府とプロイセン王国政府があり、君主の立場も皇帝と国王の2つがあったと思います故。
又、バイエルン王国でも革命があり、君主制廃止ということです。しかし、他の君主国ではどうであったのでしょうか。武力蜂起や大デモで、君主制廃止を強制されたのでしょうか。ドイツの一部に留りつつも君主国を維持する道も、ドイツから離脱して君主国として残る道もあったと思いますが。
なにか参考になるものがあればお知らせください。
コメント(1件)
ヘッセン大公国は、英国王室と縁戚であり、君主国がいきなり減るのは、好ましくなかったと思います。
また、小国分立が、英仏の利益だと思います。
ウイルソン大統領の民族自決主義の影響でしょうか?