江戸時代の寺の創建と衰退について

江戸時代は寺請制度で寺が急増したとのことですが、その状況などを知りたいです。
江戸時代に400石程度の武士が菩提所(一種の氏寺)を作り、その寺が現在も曹洞宗などの寺として残っているケースがありますが、そのような菩提所を設け維持した一家(一種の開基檀那)が没落あるいは転封に伴い転地した場合など、寺は経営維持出来ず、無住化することが多かったのでしょうか。
江戸時代にも既に無住になった寺が数多くあったように思うのですが、ある宗派あるいはある地域で寺の内、無住、留守居、住職が居る寺の状況を調べたものはありますか。
寺請制度が出来たとき、もともと開基檀那として自家の菩提寺を持っていた武士や公家達、あるいは自家の墓を持っているが僧まで抱えてはいない中下級の武士たちとその使用人達は、寺請の寺をどう選んで寺請証文を得ていたのでしょう。
江戸時代でも人口移動はあるのですが、人口減少や地域衰退で寺が経営的に成り立たなくなって無住あるいは廃寺状態になったときには、その地域の農漁民樵夫猟師などはどうしていたのでしょうか。

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id:hathi

質問者から

hathi2016/07/16 02:29:39

安産、豊作、雨乞い、病気平癒、道中安全、商売繁盛、火災厄避け、芸事上達など何かを祈願や祈祷する時、あるいは観光や娯楽を兼ねて○○参り、巡礼などにいく場合には、死者の葬儀催行を依頼する僧や寺とは別ということが普通の状態でしょう。

そうすると、中世までの葬制(死後すぐに行う葬の風習後には、遺体は放置し特別のことをしない=僧に頼む必要がない&葬儀を僧の役割とは僧も考えてはいないのが当然)からの断絶が激しすぎると思います。17世紀に寺請が強制されても、多くの人は寺請は住民登録と徴税、検挙の制度と考えていて、宗教や信仰などとは無関係と考えていたのでしょうか。

寺格でいうと本寺-末寺-門徒寺(のような寺?)の末寺が寺請の寺になっていたようですが、末寺の下位に格付けられる寺に葬儀などを頼んでいた人達、修験者のいる寺、祭礼の寺、巡礼とか寺巡り用の寺、宿場にある寺、御利益があることと祈願者の賽銭を主な収入源としていた寺では、人別帳も、寺請証文も関係ないということだったのでしょうか。

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  • id:miharaseihyou
    寺請制度は戸籍制度であって、戸籍制度は徴税のために整備される。
    取りつぶしになる家があっても別の家に代わるだけ。
    もっとも、原因が一揆や逃散だと地域全体総入れ替えになってしまった例もあるようだ。
  • id:hathi
    "寺請制度は戸籍制度であって、戸籍制度は徴税のために整備される【側面】"もあるのでしょyが、いわゆる家人、使用人などは戸籍上どう扱われるのでしょうね。また大名家の家臣など抱えられている人達の寺請、戸籍、秩禄と徴税の関係はどうなのでしょう。
    現在の徴税制度と、江戸時代の徴税制度は単純には言えないでしょう。
    江戸期には村請等の年貢徴収システム、検地も、田などに対する徴税です。
    http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/55/191_199.pdf

    寺請制度はその表向きの理由はキリシタン逮捕と転向がネライで、大村藩、熊本藩、幕府直轄領、京都では先行し、全国に一斉展開させたのは寛永15年で、その(体制側からすればテロや反乱、革命、威令に服さないヤカラを徹底追放させる)悉皆で確約証文を取り付ける管制業務の担当を寺に委託したというものす。この行政業務の委託を受けた寺がこの機会や役得を利用して仏事、葬儀を広め収益拡大を果たしたとか、新義真言宗、曹洞宗、真宗が勢力拡張したとかの影響、本寺末寺の関係の教義から支配関係への変化、檀家制度の成立と影響は大きい。 また事実上キリシタンに対する恐れが遠のいた後では、戸籍制度のような趣きになるが、徴税がねらいというよりは、住民の自由な移動を制限するネライが強く残るけれど、それにしても享保以降では実効を上げられず、ただ旧制度が現行制度になっているというだけのものになっていたようです。 寺請制度は、寺側の収入確保と村落の寺に関わる行事や工事の檀家関係、寺手形と奉公時の鑑札システムのようなものになっていたみたいです。
    宗門人別の作成管理を続けたのは、(農民を完璧に支配している)という"表象"を重要視していたからではないですか。実体的な徴税や課税、賦役に役立てる気も、宗派や寺側の事情を管理あるいは肩入れする気も、意図としてはないのではないでしょうか。
  • id:miharaseihyou
    幕府が武力政権で武断政治だったわけを知っているかな?
    家康は「百姓は生かさぬよう殺さぬよう」と言い置いた。
    全ては社会制度の安定のため、年貢の取り立てのため。
    人数が増えすぎれば、つまり生かしてしまっては食料生産が足りなくなる。
    人数が減りすぎれば、殺してしまっては年貢の上がりが少なくなる。
    当時は米本位制とでも言うべき社会だったから、経済の根幹である米の生産と消費を安定させようとした。
    従って、百姓は不満がたまるから、武力で押さえつける必要があった。

    宗教勢力は信長以来、社会的秩序を破壊するものとして弾圧されている。
    当時の宗教勢力は、本願寺が代表的だが、現在のイスラム教過激派のような存在だった。
    武力で宗教王国を築くことを目指していた。
    宗教の特質上、生産性に著しく欠ける部分があり、結果として武士勢力の方が強かったので排斥された。

    キリシタンは、当時の西欧列強の植民地政策の先兵として、各国に宣教師を送り込んでいた。
    当然ながら、技術情報は欲しいが、警戒して当然の相手だったが、他の宗教も似たり寄ったりで、上手に利用するのが当時の武家政権の知恵だった。
    キリスト教国に植民地にされて滅びた民族も多い。
    上手にヨイショして銃の製造法など聞き出したのはさすがと言える。

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