長尾景虎が、上杉氏を継いだのは、上杉憲政のあとを継いだからです。鎌倉幕府御家人から続き、鎌倉府の柱石であった山内上杉氏です。米沢藩が、山内上杉の祭祀を継いでいないなら、上杉憲政としては、どういう条件で、長尾景虎に家を継がせたんでしょうという疑問が起きますので。
上杉憲政
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%86%B2%E6%94%BF
墓は景勝が転封された米沢の照陽寺にある。
御館の乱で死亡したという憲政の子とは誰のことでしょう?
謙信はその死が御館の乱のきっかけとなったから違うだろうし
そもそも長尾家から迎えられた養子です
御館の乱で死んだのは景虎ですが
こちらも北条家から迎えられた養子です
山内上杉氏の墓
鎌倉市極楽寺
西方寺址(極楽寺切通沿い)に並ぶ石塔群のうち、七層塔が三代鎌倉公方の足利氏満の下で関東管領を務めた上杉憲方の墓で、隣の五層塔は憲方の妻のものと伝えられている。
上杉憲方は5代目当主
藤岡市円満寺
http://tigerdream-no.blog.jp/archives/8618402.html
昭和55年(1980年)、上杉憲房の墓碑が発見され、上杉氏の菩提寺だったと考えられている。
上杉憲房は13代目当主
http://rover.seesaa.net/article/434233548.html
8代目当主上杉憲実が平井へ退去した際に、極楽寺を平井に再建したものが円満寺である、と2枚目の写真にあります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%86%B2%E5%AE%9F
永享10年(1438年)、6月に持氏の嫡子・賢王丸(足利義久)が元服すると、憲実は慣例に従い将軍の一字拝領を賜るよう進言するが、持氏はこれを無視して「義久」と名乗らせ、源義家に擬して「八幡太郎」の通称を称させて鶴岡八幡宮にて元服の式を挙げる。この頃には持氏が憲実を暗殺するという噂が立ち、憲実は義久の元服祝儀にも欠席している[7]。持氏に嫌疑をもたれた事に対し、不本意として自害を試みたが制止させられた後に、難を逃れるために8月には鎌倉を出奔して領国の上野平井城に下る。
上記とは別に、安中市板鼻の海龍寺を推す説があるようです
http://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E6%B5%B7%E9%BE%8D%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E9%BC%BB
文献資料による研究では上野国の守護所は板鼻に設置され、享徳の乱以降は守護であった関東管領山内上杉家の本拠地も鎌倉から板鼻に移されたとみられているが、山内上杉家の邸宅や上杉憲顕・顕定ゆかりの同家菩提寺である海龍寺など上杉氏関連の遺構は見つかっておらず今後の研究課題となっている[8]。
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