神を信じるかどうかと、アポロの話は違うでしょう。信教の自由と、歴史的事実です。アポロは、チョコにもなっていますし、現実です。そりゃ、感情的に反論したくもなるでしょう。
あなたは、「月に着陸している」と思っている人たちに「月に着陸していない」と
思わせたいのでしょうか?
「月に着陸していない」ということを受け入れてくれないために 感情的になるのではないのかと思われます。
「月に着陸している」と思っている人たちは、それでいいのです。
無理に 変えようとしてはいけません。
逆にあなたが、「月に着陸している」ということを信じるようにしてみたらいかがでしょうか?
そうすると 感情をむき出しにして否定しますか?
>対立を乗り越える手段
反論を「感情的」と決め付けないことですね。
私は、ここまでこじれる批判の応酬合戦は、ある側面では「神は?」に近いところにあるという点は納得できます。
もはや事実が何であるかという所はどうでも良くなっているというか。
恐らく信じるという行為(思考?)は、感情や好き嫌いといった感覚と、てても結びつきやすいものなのだと思います。どちらが卵でどちらが鶏かは分かりませんが。
なので、自分の信じるもの = 良いもの、異論 = 悪いもの、といった同一化が強くなってしまうのでしょう。そして、自分の信じていたものがウソであったとすると、それは“単なる事実”という枠組みを超えて、自分自体が否定されたように思ってしまうのではないでしょうか?
だから、異論を唱える人を排除したい衝動に駆られるのだと思います。これはどちらか一方が正しく、もう一方が間違っているというより、我々ヒトの感情にはそういった側面もあるということなのではないでしょうか?
ジャン・ピアジェの「知能の心理学」を思い出しました。
どんな人も,各自の心の中に,分類,系列化,説明体系,自分一個だけの空間,時間,価値尺度などをもっていて,事物がでてくればそれを分類し,比較し,(同じか,ちがうかの双方),時間および空間の中に秩序だて,説明し,目的と手段とを評価し,計画し,等々のことをやって,その人の一生を通じて心の中にある群や群性体の操作を行なっている.
こうして、いわゆる概念体系、概念のネットワークが脳内で構築される。
それがいったん構築されてしまうと、それに対するひとつふたつの反例は、スムーズに取り込まれる。
行ったか行かなかったかは、体系そのものを否定するから、猛反発するのでは?
どうでしょうか
問題は、我々はどうすれば、誤っているかもしれない自分の概念体系そのものを修正することができるのかということになりますか