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アメリカのアポロ計画は、実は月に着陸していないというと、ものすごく感情的になった人たちが反論してきます。これって、宗教、「神はいるのか、いないのか」の議論に近くないですか。

宗教ということは、論理的ではないということであり、感情をむき出しにして、冷静な対話ができません。

アポロ月着陸を肯定するか、しないかは、神がいるか、いないかに近い。感情を向きだしにして、相手をけなしつつ行う議論は空しい。

この宗教的な対立を乗り越える手段があれば教えてください。

●質問者: ShinRai
●カテゴリ:政治・社会 科学・統計資料
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 12/12件

▽最新の回答へ

1 ● POGPI
●1ポイント

神を信じるかどうかと、アポロの話は違うでしょう。信教の自由と、歴史的事実です。アポロは、チョコにもなっていますし、現実です。そりゃ、感情的に反論したくもなるでしょう。


ShinRaiさんのコメント
いや、非常によく似た反応という気がしています。 もしかしたら「神がいる」とか、「アポロは月に行った」という命題が、頭の中で公理(AXIOM、生物学的にそれが何かを特定する必要がありますが)として構築されてしまうと、それはなかなか否定できないのかもしれないと思い至りました。 パブロフの条件反射実験の「大脳半球の働きについて 条件反射学」(岩波文庫, 1975)の第11章に相互誘導が紹介されています。 餌がある記号(たとえばメトロノーム100/分)と、餌が出ない記号(たとえばメトロノーム90/分)という2つの記号をきちんと記憶させた上で、 「エサが出る記号」を聞かせて、「エサを与えた」後で、 「エサが出ない記号」を聞かせて、「エサを与える」と、 このサイクルを何十回繰り返しても、 「エサが出ない記号」のあとで、犬は涎を出さなかったという 記述があります。 続けていると気が狂った犬もいたそうです それと同じかもしれないと思い至りました

ShinRaiさんのコメント
パブロフはこの現象を「負の相互誘導」と呼んでいます

ShinRaiさんのコメント
五官で感じられる現実によって裏付けされていないという点で、まさにアポロは「信仰」と呼ぶのが適当かもと思うのです

たけじんさんのコメント
神のいる側は、どっちですか?

ShinRaiさんのコメント
神のいる側がどっちかという問題ではなく、(創世記の)神はいるかいないかという問題なのでは

たけじんさんのコメント
捏造だと言っている一派は、神はいる側なのですか?いない側なのですか? 双方が対等な立ち位置とは、まさか思っていませんよね。

FantaOrangeさんのコメント
ですね。 アポロチョコは美味しいのか美味しくないのか。 「美味しい」であることは議論の余地なく、森永の歴史が証明しています。 アポロチョコとチョコベビーの対立がきのこの山とたけのこの里論争同様に 宗教的であるという点のみ同意します。

2 ● きゃづみぃ
●0ポイント

あなたは、「月に着陸している」と思っている人たちに「月に着陸していない」と
思わせたいのでしょうか?

「月に着陸していない」ということを受け入れてくれないために 感情的になるのではないのかと思われます。

「月に着陸している」と思っている人たちは、それでいいのです。
無理に 変えようとしてはいけません。

逆にあなたが、「月に着陸している」ということを信じるようにしてみたらいかがでしょうか?
そうすると 感情をむき出しにして否定しますか?


ShinRaiさんのコメント
回答ありがとうございます。この手の「行ったか、行かないか」、「いるか、いないか」は、0か1かのどちらかだから、議論が熱くなるのでしょうかね。 事実がどちらでもよくて、信じていることを尊重してほしいというのは、まさしく宗教ですね

ShinRaiさんのコメント
私は、「月に着陸している」と漠然と思いこんでいたのです。 それが、徐々に、もしかして行っていなかった?、え、まさか、 やっぱり行ってなかったかな、、、、という具合に考えが変わってきたのです 感情的に思考を否定するかぎり、このような思考の進化・変節は起きませんね

ShinRaiさんのコメント
「月を盗んだ男」のなかで、NASAに集まる若者は宗教的だという表現がありましたね。

ShinRaiさんのコメント
p40 研修生たちにとっては、NASAは宗教だった。生きている本物の宇宙飛行士は神に匹敵する存在だった。 というところです

FantaOrangeさんのコメント
「徐々に、もしかして行っていなかった? やっぱり行ってなかったかな、、」 となった根拠を示してもらっていいですか? (あなた自身が感情的にならぬよう)ネットや本の受け売りなしでお願いします。 とりあえずネットの受け売り置いておきますね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/アポロ計画陰謀論

きゃづみぃさんのコメント
そのような根拠はありませんので提示できません。

3 ● GM91
●11ポイント

>対立を乗り越える手段

反論を「感情的」と決め付けないことですね。


ShinRaiさんのコメント
反論される方は、自分が実際に月にいったわけでないので、どこかネットか本かで読んだことをベースにしておられますよね。 それにもかかわらず、論理的な反論ができるのでしょうか。

FantaOrangeさんのコメント
アポロの乗組員または関係者(科学者含む)をここに呼んできてあなたに直接反論すれば納得するという理屈ですか? そんなに暇じゃないと思います。

ShinRaiさんのコメント
1994年にロンドンで、オルドリン飛行士に、会ったことがあります。 「どうしてもう月に人を送らなくなったのですか」という質問をしたら、 お金の無駄だからというような答をもらいました。 もし今会えるなら「本当に行ったのですか」と伺うところですが

FantaOrangeさんのコメント
で、オルドリンさんが「本当に行ったよ」と言えば納得するのですか? そうでない場合、あなたが納得するために必要な手続きを教えて下さい。

librosさんのコメント
アポロの乗組員は「月に行った」か「月に行ったことにする陰謀に加担してる」かどちらかなので、月に行ったとしか証言できません。

GM91さんのコメント
>論理的な反論ができるのでしょうか。 当事者であったかどうかは、論理的な議論をする/しないとは全く関係ありません。 むしろ、当事者でないから感情に左右されずに議論ができるという点もありますが、元々論理的な議論というのは「全部事実かどうかを確認する」という原始的な手段を得ずに結論を得る為の手段です。 この例えは他人の受け売りですが、 「石は水に沈む」という命題について、 ※注 話を単純化するため、この場合の「石」は比重が水より重いもののこととしてください。軽石とか模造石とかは除く。 石は水より比重が重い ↓ だから石を水に投げ込むと、それが押しのける水の重量より石の重量の方が大きい ↓ だから石にかかる浮力より石にかかる重力の方が大きく、そのため石は水に沈む ゆえに正しい。 とできます。 一方で、「いや、実際に石を全て水に沈めないと確認できない」というのは論理的とは言いません。

4 ● adgt
●11ポイント

私は、ここまでこじれる批判の応酬合戦は、ある側面では「神は?」に近いところにあるという点は納得できます。

もはや事実が何であるかという所はどうでも良くなっているというか。

恐らく信じるという行為(思考?)は、感情や好き嫌いといった感覚と、てても結びつきやすいものなのだと思います。どちらが卵でどちらが鶏かは分かりませんが。

なので、自分の信じるもの = 良いもの、異論 = 悪いもの、といった同一化が強くなってしまうのでしょう。そして、自分の信じていたものがウソであったとすると、それは“単なる事実”という枠組みを超えて、自分自体が否定されたように思ってしまうのではないでしょうか?

だから、異論を唱える人を排除したい衝動に駆られるのだと思います。これはどちらか一方が正しく、もう一方が間違っているというより、我々ヒトの感情にはそういった側面もあるということなのではないでしょうか?


ShinRaiさんのコメント
ヒトという言語を操る動物に固有のものなのか(言語現象なのか)、条件反射実験で気が狂ったイヌがいたように、脊髄反射のメカニズムをもつ脊椎動物に共有されているものなのか。 もしかしたら後者かもしれない。 そして、後者であるならば、言語を操る知的野生生物であるヒトは、その陥穽を乗り越える手段をもつことができるのではないかというのが、一連の質問の背景にある私の意図です。

ShinRaiさんのコメント
つまり、我々の言語活動が、脊髄反射をベースにしているために、いったん形成された記憶と反対のこと(行った行かない、あるない、0か1かといった、白黒がはっきりしている議論の場合に共通します)を聞くと、思わず、そんなことはないよと言いたくなるのではないでしょうか

質問者から

ジャン・ピアジェの「知能の心理学」を思い出しました。

どんな人も,各自の心の中に,分類,系列化,説明体系,自分一個だけの空間,時間,価値尺度などをもっていて,事物がでてくればそれを分類し,比較し,(同じか,ちがうかの双方),時間および空間の中に秩序だて,説明し,目的と手段とを評価し,計画し,等々のことをやって,その人の一生を通じて心の中にある群や群性体の操作を行なっている.

こうして、いわゆる概念体系、概念のネットワークが脳内で構築される。

それがいったん構築されてしまうと、それに対するひとつふたつの反例は、スムーズに取り込まれる。

行ったか行かなかったかは、体系そのものを否定するから、猛反発するのでは?

どうでしょうか


問題は、我々はどうすれば、誤っているかもしれない自分の概念体系そのものを修正することができるのかということになりますか



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