言葉とは概念を規定するものですが、話者によってその概念がズレるものです。同じ言葉を使っていても、まったく同じ意味でだれもがとらえているということはありえません。例えば「赤色」も、どこからどこまでの周波数を「赤」と呼ぶかについては個人差がありえます。これがまず一点。したがって「言葉としては知っていても、その言葉の意味を知らない」という発言は、「じゃああんたはその本当の意味とやらを知っているのか」ということになります。そして、これは名詞のみならずすべての言葉について言えます。
しかし、ある程度の共通理解は得られなければ言葉として通用しません。「まあこの辺の色は赤と呼ぶ」ということで理解が得られます。したがって、一義的な定義は「不可能」というのは言い過ぎでしょう(名詞の定義が不可能なら同士も不可能、動詞が可能なら名詞も可能)。
また、「知識及び体験の総体」とは、他者との関わりという経験によって調整がなされます。さらに、実体験ではなく伝聞及び推測・想像によっても「知識・体験」は得られます(夢だって体験だし、映画・テレビも知識の源です)。したがって「身長2m足らずの人間は、地球規模の環境問題をとうてい認識することができない」というのはおかしいし、そもそもあなたも身長2m足らずの人間であると仮定するなら、論理的には、あなたが「身長2m足らずの人間は地球規模の環境問題をとうてい認識することができない」と認識することもとうていできないはずですね。
言葉というものは、Aという概念をAでないものと区別するためにある、と考えるとわかりやすいと思われます。したがって、「地球環境問題」について、少しずつ分割して考えてみましょう。まず、「地球」の問題であって、家の中だけ、近所だけ、県内だけ、日本だけ、アジアだけの問題ではなく、また太陽系全体や銀河系に及ぶ問題でもなく、この惑星上の問題である、ということは概念として理解可能なはずです(そこにどれだけ実感が伴うかは別問題として)。また、「環境問題」も具体例を挙げれば理解は可能でしょう。
この質問では、あなただけは地球環境問題という言葉の意味を理解しているが、ほかの人たちは人間だから理解できない、というふうに受け取れます。
ここで「地球環境問題の深刻さを伝えたい」というのは、言葉の問題とはまるで無関係です。いかに「実感をもって伝えることができるか」という問題は、意味論とはまったく関係がありません。
この質問をもう一度読み返してください。あなたは「地球規模の環境問題をとうてい認識することができない」「身長2m足らずの人間」ですよね?それなのに「どうすれば、無垢なる人間たちに、「地球環境問題」の深刻さを伝えることができるでしょうか」と問いかけているということは、地球規模の環境問題を体験した数少ない人間の一人だということですよね?(論理的にはそう読み取らざるをえない)
あなたは一体、何者なのですか?
この問いかけは皮肉ではなく、あなたのおっしゃっていることがすでに矛盾しているのではないか、ということです。