座禅で「悟る」というのは、ヒンドゥでいう
「サマディ」という状態ですね。
ヒンドゥでは自我と神との融合を目指して
瞑想を行います。
多神教であるヒンドゥは、ある意味、
宇宙自然の全てに神性が宿ると考える汎神教ですから、
瞑想を行うと、腰の辺りにとぐろを巻くように存在している
クンダリーニというものがだんだん昇ってきて、
いつしか脳天を突き破って高く上昇し、
そしてついに自我と宇宙が融合する、
といったイメージで瞑想するわけです。
そうして得られる境地がサマディと呼ばれる状態です。
このサマディという状態と「生と死」とを
比較対照して解明していったのが、
アルナチャラの聖者と呼ばれたラマナ・マハリシです。
師は17歳の時突然襲ってきた死の恐怖を直視するあまり、
一度は人事不省に陥るまでに心身共に追いつめられていきますが、
そこから肉体と精神との関わりを深く探求するに至り、
ヒンドゥのサドゥとして瞑想を重ねながら、
やがて自我の本質は肉体を超越した不死の意識である、
と悟りを開くに至りました。
サマディと死とは何が同じで何が違うのか。
それに対する師の答えが、ご紹介した本に
詳細に述べられています。
私はそれを解説する力を持ちませんが、
簡単に言ってしまえば、死は意識が消滅していくもの、
それに対してサマディは表面的には同じようであるが、
実は極限まで活性して宇宙と融合している状態である、
ということであろうかと受け止めています。
そして最終的に肉体が滅びていく時、
意識が同時に消滅していけばそれは死であり、
クンダリーニが高く昇って意識が最大に活性していけば
マハー・サマディ、すなわち仏教で言う成仏となるわけです。
ここにおいて、悟りの極致と死は肉体的には一致し、
精神的には全く対称的なものとなっていく、
ということのようです。
書いていることと全く同じことを書かれている人がいますが・・・
説明文が難しかったかな?
この方の求めていた回答は、
最後の方の回答にあるような、
ヒンズー教的神秘主義にあろうかと
#他の人の感じ方/考え方を広く知りたい
というわけでは特にないような
※この方が恐らくされたかった質問:
座禅をしていて「悟る」事と幽体離脱をする事、
または死ぬ(間際の状態)との違いって何ですか。
座禅をしていてあるところまで行き着くと
体から抜ける感覚と…死ぬ(間際の)感覚も
こういうものなんじゃないかなぁと思い質問してみました。
(括弧内は小生の推断による補足)
#↑この質問でしたらわざわざ冷や水は掛けません…
今回はごめんなさい…
(死を欲しておられるのではないようなのでほっとしていますが
http://pasosavi.ld.infoseek.co.jp/