もし時間犯罪者になるならばですが、武田信玄晴信の同腹の弟、二男の武田典厩信繁が主たる狙いです。
戦国時代の川中島へ忍び込みます。上杉謙信との激戦前夜、夕刻ですね。日が暮れようとしています。上杉勢は数万の勢を退路確保のため後方の川向こう越後方面に展開させたまま、8千の勢で川中島奥深く妻女山・山頂に布陣しています。武田勢は海津城に2万の勢で立てこもっています。謙信は毎夜酒宴をし、ただ武田勢が動くのを長い期間待っていました。私が忍び込んだとき、夕方ですが、ちょうどそのころ、謙信が山頂から山下の海津城を眺めると、海津城では炊煙がいつもよりも多く上っているのを発見します。それを見た謙信は、すわ必ずや今宵こそ武田勢が夜討ちを仕掛けてくるだろうと踏みます。そこで謙信は今宵から明日に掛けて決戦を挑むべく全軍に進発命令を発する訳です。
ちょうどその頃、私が武田本陣になんとか首を取られないように細心の注意を払いながらもぐりこむわけです。「すんません、弁当屋ですが。すんません弁当屋です。ちょおっと通して頂いてもいいすっかぁ・・・」みたいにです。(殆どここで露見して処刑される公算が強いという説もありますが)で、典厩信繁の陣屋に行き、信繁に対して急にえらそうになって言います。
「明日武田は謙信に裏を掻かれ、信玄が嫡男義信が討ち死にしそうになる。そこでそちは、進んで義信の盾となり義信の代わりに討ち死にするであろう。が、そちは義信を救って討ち死にしてはならん。ところで信玄はこのずっと後に駿河を制し、三河を攻めたところで病死するのじゃ。さて、その後なんじゃが、巨大な領土を持つ尾張者との戦で、信玄が後継と定めた四男勝頼が能力不足じゃ。武田は皆殺しにされてしまう運命じゃ。そちの役儀とは、今、義信を助けず、後に、勝頼を助くることじゃから、ゆめゆめそれを忘れるでない…ではさらばじゃ!」私は、ぼよよんと消えます(タイムマシンで帰還する為)。典厩信繁はそれを見て、はっと勘違いをし、さては八幡菩薩の化身かと思い、翌日、結果として犠牲の討ち死にを思いとどまるべく決意します。
さて当日深夜、
武田勢の馬場信春らが率いる1万2千の勢は深夜、闇に紛れて移動し、山頂沿いに妻女山の上杉陣場を攻撃しますが、上杉の陣は、偽の旗、捨て篝火があるだけで、すでにモヌケの殻。とっくの昔に上杉勢全軍は妻女山を降りてしまっていました。そうと知った武田1万2千は慌てますが、巨軍ゆえに細く蛇行する山道ですから、のろのろとした進軍しか出来ません。どうにもなりません。一方上杉謙信は、山の麓に広がる川中島盆地の平原のどこかで、自分を狙って待ち受けているであろう武田信玄の本陣勢8千を探そうと、既に川中島平原を進軍しています。
早朝霧の濃い川中島の平原において、「山頂での戦に疲れ果てて越後へ帰ろうとする上杉勢を屠る」ことを目的として、川中島平原で待ち伏せをしている武田信玄8千の勢を、謙信8千がついには見つけます。上杉勢は見つけるやいなや武田勢に車懸かりの陣で取り懸かります。精強な上杉勢に正面から全軍突撃を受けた武田勢は、どんどん敗色が濃くなり、ついには武田信玄・義信親子の本陣も崩れそうになります。
その時、信玄の制止もきかず義信隊が突撃を行います。すると、上杉の大群の向こうに孤立してしまった義信隊は、上杉勢に四方を囲まれ四面楚歌になり、全滅の危機に瀕します。それを見た初鹿野隊は義信隊を救出すべく上杉勢に突入してしまいます。重臣初鹿野は義信の代わりに討ち死にします。
それを見ていた典厩信繁ですが、ぐっと思いとどまり、自陣を信玄本陣直前に移動させ、信玄馬廻り勢を守りながら、じりじりと後進を始めました。結局初鹿野隊が全滅し、嫡男武田義信隊を全滅させた上杉勢は、総本陣、武田典厩隊と信玄隊に肉迫しますが、典厩隊が信玄隊を支えている最中に、全体の戦況が一変します。
妻女山に向かった1万2千の武田勢がようやく到着し、8千の上杉勢の後ろへ突撃したのです。こんどは逆に上杉勢は散々な被害を出しながら全軍全面退却に移行する番です。川向こうの越後側に陣を張り、退路を確保している上杉勢のところまで逃げていかねばなりません。1万2千の武田勢は逃げる上杉勢をどこまでも追いかけて討ち取ります。上杉勢はそのまま越後へと退却します。
さて、このようにして嫡男義信討死、初鹿野、飯富兵部、等多数討死、となりました。狙い通りです。
というわけで、典厩信繁を救いました。
後年、織田勢が美濃を平らげ、近江を平らげて、京へ進出しますが、兵員動員可能数が10万近くに膨れ上がります。このプロセスの中で、織田の強豪化を見ていた信玄は慌てて、今川の領地・駿河侵攻を目論見ますが、今川家の娘を妻に持つ嫡男義信の猛反発を受けて作戦開始時期が遅れてきます。遅れている間にも織田はどんどん大きな戦力になっていくわけです。結局信玄は嫡男義信を幽閉し、殺してしまいます。
ところが、時間犯罪によって、当の義信はいないわけですね。武田の駿河侵攻の時期が少し早まります。
次に、武田信玄が徳川家康を攻めます。家康の領土は2大拠点で運営されていました。西の岡崎城、東の浜松城です。東の浜松城付近を一掃した信玄は、亀のように浜松城に篭る家康を平原に誘い出すために、そのまま西侵し、岡崎城へ向かうそぶりを見せます。岡崎城が陥落すれば、もやは家康が助かるすべはありません。慌てた家康は城を出て、僅かな兵力で信玄の大兵団に挑戦状を叩きつけます。が、ボロボロに敗れた家康は浜松城へほうほうのていで逃げ帰ります。信玄はこのままこの近辺で死亡します。が、信玄が死んだので、甲斐へ向けて全軍撤退をします。しかしそれまでずっと、その時にも、横で信玄を補佐してきたのが、死んだはずの典厩信繁です。信玄は自分の死後は、勝頼の嫡男の幼児を後継者とし、執事として典厩信繁を家中軍事の采配者として任命します。勝頼は諏訪性を名乗らせ、一部隊長とします。
後年、浅井朝倉本願寺を攻略し、近畿を制覇した信長は、甲斐信濃駿河上野を領有する武田と対戦するため、木柵と鉄砲を多量に抱えて長篠へ向かいます。対するは、武田勝頼ではなく、武田典厩ですので、これは騎馬隊がわざわざ地面に打ち込んだ柵へ正面突撃するような愚は犯しません。柵を後ろを突くなり、逆に撤退するなり、どうにでもなります。
結局、信長は武田を落とせずに、様子を見ます。
本能寺ですが、結局これは、信長が武田を攻め滅ぼしたそのすぐ後に起きています。武田領だった駿河を拝領した家康がお礼に参上した直後に本能寺の変です。言うなれば、新潟と関東平野よりも西側、しかも兵庫・近畿までを領有した用心深い信長も、かくなるうえは、いかにも織田は安泰と考えたため、逆に今度は部下の粛清を始めたわけですね。それの一部に対してのリアクションが本能寺だったという流れとして、
武田が攻略できなければ、或いは、信長も呑気に部下の粛清などやっていなかったでしょう。そうなれば、本能寺の変も無かったかもしれません。
仮に本能寺でなくても信長が暗殺されたとして、例えば秀吉が天下を取ったとしても、家康が天下を取ったとしても、両名とも、大の武田贔屓でしたので、これを配下に収めるべく工作し、全滅させはしなかったかもしれません。
秀吉と家康が戦った小牧長久手の合戦も、家康が三河遠江駿河甲斐信濃と5カ国を領有していたから、出来たことです。三河2国程度では秀吉と戦うことはできません。
関が原も動向が変わってきます。上杉が弓を引き、光成が乗りますが、この時に武田が秀吉の部下として大領土をもっていたでしょうから、関が原も動向が変わってきます。
細部はもうよく分かりませんが、本能寺は武田攻略によって発生したということがありますので、この時武田が滅ばず、ただ現状を維持していただけで、日本の歴史が予測不能になると思います。
ということで、武田信玄の弟・次男・武田典厩信繁を川中島で戦士させない、ということです。
乱文失礼しました。
こういった質問って正解などなく、歴史を題材にした、ちょっと頭を使ったお遊びみたいなものなんで。
かなり力作な回答が来たことが嬉しかったです。
ついコメントを打つ手にも力が入りました(笑)
ポイントについては、かなり主観で割り振らせていただきましたので、何卒ご容赦のほどを。