この言葉の前後の文脈は「史記」のどういった篇にあるのか教えてください。
国学原典•史部•二十四史系列•史记•卷七十七
http://www.guoxue.com/shibu/24shi/shiji/sj_077.htm
中段より少し下ぐらいに載っています。
その他
http://www17.ocn.ne.jp/~ichitubo/zayuu.html
http://www.yasue.cc/chin_gwok_chak367.html
http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%94%90%E9%9B%8E%E8%AA%AA%E4%BF%...
http://www.tonyhuang39.com/page/cc031.html
http://dbnet.ncl.edu.tw/tsaiani/history/history_04_1.htm
ありがとうございます。大変に参考になりました。
id:axwgt さん、こんにちは。
列伝に出てくるようなのですが、巻までは特定できませんでした。
史記〈5〉―列伝〈1〉 (ちくま学芸文庫)
史記〈6〉―列伝〈2〉 (ちくま学芸文庫)
史記〈7〉―列伝〈3〉 (ちくま学芸文庫)
史記〈8〉―列伝〈4〉 (ちくま学芸文庫)
↑この四冊のどこかに出てくるはずなのですが……。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4103335092.html
魏公子(信陵君)列伝―物有不可忘或有不可不忘(上記URLより引用)
↑この本の感想がありました↓
第六章 魏公子(信陵)列伝 物有不可忘或有不可不忘 「忘れてはならぬことと、忘れなければならぬこととがある」の意で、・・・・中略・・・・これは魏公子(信陵君)の食客の一人が公子を諫め(いさ)めた言葉である。 http://blog.goo.ne.jp/tukujiisan/e/4b70192c86e814b9e228ae7c58e9c... 左記URLより引用
「忘れてはならぬことと、忘れなければならぬこととがある」の意で、・・・・中略・・・・これは魏公子(信陵君)の食客の一人が公子を諫め(いさ)めた言葉である。
http://blog.goo.ne.jp/tukujiisan/e/4b70192c86e814b9e228ae7c58e9c... 左記URLより引用
長い勤務生活の過程で、出来る人ほど執念深く、過去のことを忘れないケースを経験しました。そんな時に出てくるのが「物有不可忘 或有不可不忘」です。魏公子信陵君の記述にあります。「世の中には忘れてならないことがある、しかし、時には忘れなければならないことがある」といった意味でしょうか。このように書くと淡々としたものになりますが、「敢えて忘れるべき」と言いたい局面はかなり有りました。 楚公子春申君が陰謀にあって滅びた際に司馬遷がさりげなく入れている、「断ずべくして断ぜざれば、かえってその乱を受く」という、それ以前からの諺等が司馬遷の思いのようなものを伝えているように感じます。 http://www.creage.ne.jp/app/UsrInfo?p=mailmag41.jsp 左記URLより引用
長い勤務生活の過程で、出来る人ほど執念深く、過去のことを忘れないケースを経験しました。そんな時に出てくるのが「物有不可忘 或有不可不忘」です。魏公子信陵君の記述にあります。「世の中には忘れてならないことがある、しかし、時には忘れなければならないことがある」といった意味でしょうか。このように書くと淡々としたものになりますが、「敢えて忘れるべき」と言いたい局面はかなり有りました。
楚公子春申君が陰謀にあって滅びた際に司馬遷がさりげなく入れている、「断ずべくして断ぜざれば、かえってその乱を受く」という、それ以前からの諺等が司馬遷の思いのようなものを伝えているように感じます。
http://www.creage.ne.jp/app/UsrInfo?p=mailmag41.jsp 左記URLより引用
以上、参考になれば幸いです。
ありがとうとうございます。いろいろと含蓄あるお話も読ませていただきました。
そもそもこの言葉にこだわっているのは、かの弘法大師空海の書に、
「崔子玉座右銘」の中の「施人慎勿念受施慎勿忘」が書かれていることから
その出典を知りたく探していたというわけです。
「朱亥」が発した次のような文意のようです。
「物事には忘れてはならないことと、忘れなければならないことがある。人が徳を施してくれた場合、忘れてはならない。人に徳を施した場合にはどうか忘れてください」。
http://jrzhu.exblog.jp/i2/
> 対中ODAを再び日中間の美談にしよう
後段からです。
>>
それによると、魏の公子信陵君が3千人の食客(有能の士)を抱え、面倒を見ていたが、そのうちの一人、もともと門番出身で70歳になった侯?は公子から礼を尽くされ大いに世話になったのに、一向お礼を言わない。最後のいざとなったとき、公子のために最大限の努力をした後、ご恩は命で返すと言い残し、自ら首を切った。もう一人世話になった朱亥は死を覚悟して公子のために出征した際、「この賎しいものの私を、公子はご自身でしばしばお訪ねくださった。私が答礼もしなかったのは、小さな礼儀では返せないと思ったからだ。いまこそ命を投げ出してご恩に報いるときだ」と話した。そして文章の後半に、さらに次のようなくだりがあった。「物事には忘れてはならないことと、忘れなければならないことがある。人が徳を施してくれた場合、忘れてはならない。人に徳を施した場合にはどうか忘れてください」。
<<
http://www15.ocn.ne.jp/~yasuyoi/arai1.htm
朱亥
>>
司馬遷著『史記』列伝の内「魏公子列伝 第17」に登場する。
<<