苔むした煉瓦積みの壁とか、「昔、人が居た感じ」とか、人の歴史と自然が絡み合って時間を積み重ねてきた感じとか、でしょうか。
技術が作り出した「直線」と自然が創り出す「ぐねぐね」という正に対極にあるものが入り混じって対比されている所が、好きです。だから朽ちたラピュタの方が美しいと思います(って、栄えていた頃のラピュタを見た訳じゃないですけどねー)。
アンコールワットの遺跡が、蔦が絡まっていた方が「美しい」と思える(個人的に)のに似ています。
どちらも高度な文明が滅びた後の残骸。ラピュタは瘴気の無い腐海。蟲を無くして菌類を植物にしただけ。アニメーションとして美しいと思うが、存在として美しいとは思わない。
いくら文明が発達しても、時間という流れの中で到底自然には勝てない。
それが、美しさをあらわしていると思います。
人間が作り出したも、それは美しいものと言えるでしょうか?
古代文明ローマ帝国でも、今と同じように贅沢三昧の生活を送っていたようですが、豊かな生活、支配、戦争と言う人間には切り離せない物となっています。
時代と言う流れの中で、平家物語の
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」
そういうことを繰り返し繰り返し、時代は流れてきたように思います。
そして、自然に還るそれが、美しく思える理由だと思います。
物語の中で、ラピュタの歴史を語るシーンがあるけれど、最後は地上を支配する帝国だったわけです。景観は非常に美しいものだと思いますが、内部は欲望渦巻く帝国だったわけで・・・。一概に美しいとは思いません。ただ、この作品はジブリの最高傑作だと勝手に思ってます。面白いですよね。
一見、綺麗に見える絵作りだけど人がいなくなって荒れた城なので不気味ですね。
人がそこで生活していれば美しいと思うかもしれません。
こんにちは。お返事ありがとうございます。
視覚な美しさも、やはり「もののあはれ」ではないですが、滅んだ物に対して人が「物語」を感じるからかな、と私は考えています。
つまり大樹の根本に廃墟がある点で、そのバランスが「視覚的」に美しい。そこに加えて、ラピュタという物語の設定がのっかり、さらに美しさ・もの悲しさが強化されている、と私は感じました。
はい、自分は外部の自然などを中心とした美しさをメインに書いてきていますが、内部に関しても廃墟的な面、機械としての美しさ、そしてそこに木の根っこなどの自然がある点が美しいと思います。このあたりは他の方の意見に同意と言った感じです。
つまり、物語があるからそれをラピュタ自体にも重ねあわせて良さを感じるということでしょうか。視覚的に美しいのはやはり自然の効果ですか?
ゴミっていうのは綺麗じゃないですもんね。どれだけ豪華な城でもゴミがあるだけでダメですもんね。衛生的な問題は大事ですね。
つまり、もしラピュタが実在していたらどうかは分からないけど、駿さんが作品として描いたから、トータル的に観て美しいということですね。逆説的な美ですね。
存在としては美しいということですね。誰かが住んだらラピュタは実質的には廃虚じゃなくなってしまいますもんね。やはり、ある意味生活観が無いからいいのかもしれません。
癒される場所にでさえ仕事を求められるということは、お仕事が充実されてるんですね。
私はできればラピュタのような綺麗な場所に仕事を持ち込みたくない派なので(笑
そうですね。その方が観ている方もハラハラして楽しいですもんね。ちなみに、ラピュタが飛んでいなくて、地上にあったらどう思いますか?
人間が絶対最高だと思ってる人は廃虚を美しいと思わないかもしれませんね。ただ、駿さんが綺麗に描いたから、深い考えなく美しいと思う人はいるかもしれませんけど。自然に還りつつあるものを、再び自分の手の中に握ろうとした人間の傲慢さはとっても表現されていると思います。駿さんの意図は分かりませんが、登場人物も素敵な人が多いですし、彼の描く人間は悪者でも温かみがありますから、二律背反ですね。二つの相反するもの…そこに統合や調和の可能性を夢見るのがロマンですね。参考になりました。
そうですね。廃虚だったら人間の虚しさとか、儚さとか、過去への憧れを表現する事が多いですね。もちろん恐怖とか孤独の表れにもなりますが。
つまりは、自分は人間だけど、人間が滅びた方がパラダイスに思えるということですかね?
美は語りだすと深いです。でも、好きだと思うなら何かしら美の要素は感じてると思います。何故ラピュタを好きなんでしょうか?そこを答えていただけると助かります。
美しいとも、美しくないとも思いません…っていうのはナシですか? 美って何ですかね。
「天空の城ラピュタ」は好きですが。
うまく説明できないんですが、マイナスイメージを打ち破ってるところがすばらしいのは、たしかにそうなんです。ただ、宮崎駿が描写したのは、廃墟そのものの魅力じゃなく、人間が滅びたあとに残るものの美しさのような気がするんです。
以前そこに住んでいた人間の思惑とは関係なくはびこっている草や木や生き物たちの世界があって、しかもそこには人間がスイッチを入れて以来、ずっと無言で働いている機械がいて、完全に放置されてるわけじゃない、不思議な空間ができあがってる。
廃墟は、人間が自分の都合でより良い世界を「力づくで」追求しようとして失敗した痕跡だとすると、廃墟を覆い尽くしてる草木や生き物やロボットは、なんの力みもなくパラダイスを作り上げてる。暗いトンネルの出口にぱっと明るい空が広がってるみたいに見えるんですよねえ。
美しいですね。
ただ、あれは人間のエゴと、存在そのものを排除したからこその美しさを強調しているのだと思います。
「ナウシカ」では、人間と自然の共存を模索し、「もののけ姫」では、人間社会と自然(ケモノ)で、共感できる部分があったとしても結局は絶対に交わることのできない世界を。
「ラピュタ」の空中王国は、人間そのものを否定した世界なのではないかと思います。
そして、それを人間が共感できる美しさとして感じられるのは庭園ロボットの存在ではないでしょうか。
あれは、それそのものが優しいのではなく、それを作った人間という部分を反映しています。
エゴイズムを徹底的に排除し、善意だけを閉じ込めた殻。あれは人間という物の幻影だと思います。
そして戦闘ロボットにもあえて同じフォルムを持たせたのは、それも同じ人間だという証ではないでしょうか。
もちろん、ラピュタの狭い中にも、狭いからゆえの生き物の激しい共存競争があって、彼らにとっては単純に楽園ではないでしょう。それでも、そこに人間の姿がないだけで、何故か無条件に調和を感じてしまう。ある意味人間の無責任さの現れなのかもしれません。
あれ(廃墟)を美しいと思うのは、人としての劣等感や自己否定、そして嫌人間観を持っている人間ならではなのではないでしょうか。
おまけですが、ラピュタに近づいたシータがゴンドワの美しさを必死に語るのは、自分の居場所を否定したくない、生きたいと言う人間の心なのだと思います。
エンディングも、人の生きる大地の美しさを強調しています。
パズーの生きる町の人々の温かみも同様ですよね。
それがどれほど汚れても、人が生きる地の美しさという事を、対比するように描いている気がします。
(でも宮崎監督はラピュタ寄り…ではないでしょうか?)
嫌です。うかつに歩けません。
宮崎監督のアニメの面白さって「ぎゃー!落ちるー!」って所が多いですよね。