美しいですね。
ただ、あれは人間のエゴと、存在そのものを排除したからこその美しさを強調しているのだと思います。
「ナウシカ」では、人間と自然の共存を模索し、「もののけ姫」では、人間社会と自然(ケモノ)で、共感できる部分があったとしても結局は絶対に交わることのできない世界を。
「ラピュタ」の空中王国は、人間そのものを否定した世界なのではないかと思います。
そして、それを人間が共感できる美しさとして感じられるのは庭園ロボットの存在ではないでしょうか。
あれは、それそのものが優しいのではなく、それを作った人間という部分を反映しています。
エゴイズムを徹底的に排除し、善意だけを閉じ込めた殻。あれは人間という物の幻影だと思います。
そして戦闘ロボットにもあえて同じフォルムを持たせたのは、それも同じ人間だという証ではないでしょうか。
もちろん、ラピュタの狭い中にも、狭いからゆえの生き物の激しい共存競争があって、彼らにとっては単純に楽園ではないでしょう。それでも、そこに人間の姿がないだけで、何故か無条件に調和を感じてしまう。ある意味人間の無責任さの現れなのかもしれません。
あれ(廃墟)を美しいと思うのは、人としての劣等感や自己否定、そして嫌人間観を持っている人間ならではなのではないでしょうか。
おまけですが、ラピュタに近づいたシータがゴンドワの美しさを必死に語るのは、自分の居場所を否定したくない、生きたいと言う人間の心なのだと思います。
エンディングも、人の生きる大地の美しさを強調しています。
パズーの生きる町の人々の温かみも同様ですよね。
それがどれほど汚れても、人が生きる地の美しさという事を、対比するように描いている気がします。
(でも宮崎監督はラピュタ寄り…ではないでしょうか?)
美しいですね。
ただ、あれは人間のエゴと、存在そのものを排除したからこその美しさを強調しているのだと思います。
「ナウシカ」では、人間と自然の共存を模索し、「もののけ姫」では、人間社会と自然(ケモノ)で、共感できる部分があったとしても結局は絶対に交わることのできない世界を。
「ラピュタ」の空中王国は、人間そのものを否定した世界なのではないかと思います。
そして、それを人間が共感できる美しさとして感じられるのは庭園ロボットの存在ではないでしょうか。
あれは、それそのものが優しいのではなく、それを作った人間という部分を反映しています。
エゴイズムを徹底的に排除し、善意だけを閉じ込めた殻。あれは人間という物の幻影だと思います。
そして戦闘ロボットにもあえて同じフォルムを持たせたのは、それも同じ人間だという証ではないでしょうか。
もちろん、ラピュタの狭い中にも、狭いからゆえの生き物の激しい共存競争があって、彼らにとっては単純に楽園ではないでしょう。それでも、そこに人間の姿がないだけで、何故か無条件に調和を感じてしまう。ある意味人間の無責任さの現れなのかもしれません。
あれ(廃墟)を美しいと思うのは、人としての劣等感や自己否定、そして嫌人間観を持っている人間ならではなのではないでしょうか。
おまけですが、ラピュタに近づいたシータがゴンドワの美しさを必死に語るのは、自分の居場所を否定したくない、生きたいと言う人間の心なのだと思います。
エンディングも、人の生きる大地の美しさを強調しています。
パズーの生きる町の人々の温かみも同様ですよね。
それがどれほど汚れても、人が生きる地の美しさという事を、対比するように描いている気がします。
(でも宮崎監督はラピュタ寄り…ではないでしょうか?)