おそらくは全国に広がった古墳の墓守だと思います。
こちらに大和の国大塚村(塚は一般に古墳を指します)のシクという記述が出てきます。
http://blog.livedoor.jp/fura1738/archives/50571457.html
【大館高門曰】我一とせ在京の砌大和國廣瀬郡大塚村のシクと餌取(ゑた)と氏神の事に付て争論ありて訴訟に及ぶ其時シクの方が利運のよしに御裁許ありと聞ぬ尤此シクは塚守の由緒の者のよし氏神とは古墳の謂なりとぞ【正生考】シクとは祝人の事にや【小塚直持曰】シクは守戸(シュコ)の轉聲なるべし諸陵式に守戸五烟三烟などあればなり
「祝人」とは「ハフリ」と読み、神官です。
http://gejirin.com/src/Ha/hafuri.html
ハフリ・ホフリ
推測するに、「侍る(はべる)」→ はぶる →はふる。 宮に侍る人=ハフリ。
しかし「ハフリ」と「ホフリ」はおそらく別。
【祝】ハフリ -広辞苑より-
神に仕えるのを職とする者。 普通には禰宜(ねぎ)の次位で祭祀などに従った人。 はふりこ。 はふりと。
【葬り】ハブリ -広辞苑より-
ほうむること。埋め祭ること。ほうむり。葬送。
【屠り】ハフル・ホフル -広辞苑より-
祝人は、こちらを見る限り、一般に神官としての職務を行っていたようです。
http://gejirin.com/src/dic/DIC_O.html
ムメ大宮の祝人・穂積のオシウド(勅使)にヰツアサマ御子とヤマスミの四神をヤスガハラに遷すように命じる(冨知神社)。
http://gejirin.com/src/dic/DIC_Su.html
孝安92年春にスルガ宮のハフリがヤマトタリヒコクニ(6代孝安天皇)にハラの絵(富士の絵)を奉るが、天皇は興味を示さず受け取らなかったという。
■その後スワのハフリ(祝人)がオオヤマトフトニ(7代孝霊天皇)に再びハラ山の絵を奉っている。 同じ物と思われる。
『九十二年 春 スルガ宮 ハフリ ハラの絵 奉る 御子 申せども 君 受けず』31紋
『翌日十二日 朝 スワハフリ ハラ山の絵を奉る 君 これを褒む』32紋
そもそも諏訪神は古来、風の神として有名で、諏訪大社にはかつては風の平穏を祈る専門職として風祝(カゼハフリ)というものが置かれていた。
こちらは北関東、神職としての記述が出てきますが、古墳守としての機能も確かにあったようです。
http://mukidouan.exblog.jp/7941544/
「祝人」は「はふり」と読むんさね。
・・・
何でも「祝人」(はふり)は「神主」のような意味あいらしい。
wikipediaでは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9E%E9%A3%9F
ほいど(ほいと)。祝人(ほぎ人)が転訛したもの。神楽、獅子舞などの縁起者が物乞いも行っていた事から言われるとされる。
とあるのですが、神職のハフリとはまた別に被差別対象がいたのか、ハフリの一部が被差別対象になったのかはわかりませんでした。
一方、守戸(シュコ)ですが、
http://www.geocities.jp/rois_77/outo-nendai-hi3.htm
宝亀 9年 778
3月23日 淡路廃帝(淳仁天皇)の墓を山陵と称し、生母大夫人当麻山背の墓を御墓と改称。守戸を置く。
とあります。
祝人、ハフリは神職として(被差別対象ではなく)機能していたようなので、こちらの方がおそらく「シク」なのではないかと思います。
「延喜式」の記述をいくつか。
http://shimin-kyodo.sakura.ne.jp/bungei/aichikogan/tokaido157.ht...
日本武尊。在伊勢国鈴鹿郡。兆域東西二町。守戸三烟
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage945.htm
贈一位田口氏、同天皇外祖母、在河内国交野郡、兆域東西三町、南北五町、守戸二烟
http://mblog.excite.co.jp/user/barakan1/entry/detail/?id=4832971
皇后井上内親王、大和国宇智郡に在り兆域東西十町、南北七町、守戸一 烟
これを見る限り、国家が制度としておいたもののようです。
こちらを見ても(大和地方だけでなく)全国に配置されたようです。
http://www.dbpia.co.kr/view/ar_view.asp?pid=740&isid=34504&arid=...
“別記云, 常陵守及墓守, 并八十四戸, 倭国卅七戸, 川内国卅七戸, 津国五戸, 山代国五戸, 免調徭也, 公計帳文莫納, 別為計帳也. 借陵守及墓守, 并百五十戸, 京二十五戸, 倭国五十八戸, 川内国五十七戸, 山代国三戸, 伊勢国三戸, 紀伊国三戸, 右件戸納公計帳文, 而記借陵守也(『令集解』巻第4, 治部省 諸陵司条の古記い引用された別記)”という記録は守墓人を‘常陵守及墓守’と‘借陵守及墓守’として区分して各地域別に定員を規定している点で碑文の記録方式と同じである
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/90885/m0u//
古代、陵墓の守営にあたった戸。陵戸の足りないとき、近隣の良民から指定された。
とありますし、上の記述を見ても神職ではなく普通の良民、墓を守るために配置された人々のようです。
被差別問題については、以下のような事件があったようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%83%A8%E8%90%BD
麓に神武天皇陵(ミサンザイ古墳)を見据える畝傍山の麓からやや上方にかけて、かつて洞(ほら、大和国高市郡白橿村大字山本枝郷洞)と呼ばれる村が存在した。
この村は、神武陵の南手、ちょうど同陵を見下ろす場所に位置する、嘉永7年(1854年)の時点でおよそ120戸、大正9年(1920年)の時点でおよそ200戸を数えた、同陵墓の守戸―いわゆる墓守の集落と伝わる村で、被差別部落であった。
やはり被差別民であった夙と同一視する見方もあるようですが、定説として確定はしていないようです。
(上記の史料を見ると、紀伊にも伊勢にも置かれているようなので、否定の根拠とされた「シュコは畿内以外にはいなかった」、という話とは食い違ってくるのですが)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%99
夙(しゅく、夙の者、宿の者)は、中世から近世にかけて近畿地方に多く住んでいた賎民。
起源 [編集]
夙の起源として有力であったのが天皇の御陵番である「守戸」が転訛したという説である。これは幕末に北浦定政が提唱し、本居内遠が『賎者考』にて紹介[3]したものである。これに対して柳田国男は「毛坊主考」(『定本柳田国男集』第九巻)にてこの説を否定している[4]。大体、夙の分布は畿内の外、紀伊・伊賀・近江・伊勢・丹波・播磨・淡路に広がっており、一方守戸はほぼ畿内に限られていたため一致していないのである。
被差別問題との関係ではこういうことが言われています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E8%90%BD%E3%81%AE%E8%B5%B...
古代の賎民の業務には天皇陵の警備など皇族と関係の深いものが多かったことから、自分たちこそが天皇に最も近い民であると主張する人々もおり、
なお、守戸は律令制により定められた賤民ではなく、別の経緯から差別されたようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%89%B2%E3%81%AE%E8%B3%A...
ネットで拾えるものをいくつか出してみましたが、守戸(あるいは祝人)=シクだとすれば、畿内だけではなく広範囲に広がっていること、また制度としても中国や韓国と関連性が深いという研究もあることから、邪馬台国とはあまり関係がないのではないかと思います。
「畿内説」の春成氏は、最新技術による研究で「奈良の箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは、間違いなくなった」との発表を行い大きな話題となりました。
奈良県のある村に、大昔の古墳時代、亡くなった偉い人と一緒に生きたままお墓に埋められた後で、こっそり脱出した人々の末裔が住んでいると伝えられている集落があったそうです。そこに住む人々は、”シク”と呼ばれ、一般の村の人々はそこの人々との婚姻は避けたそうです。
箸墓古墳(はしはかこふん、箸中山古墳とも)は、奈良県桜井市箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられており、3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳である。建造時期や大きさなどから卑弥呼の墓に見立てられることも多いが、未だその確証は無い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B8%E5%A2%93%E5%8F%A4%E5%A2%B...
昔は王様が死ぬと奴隷たちは生きたまま墓の周りに埋葬された時代もあったそうですので、生き延びて脱走した人達も多かったのではないでしょうか?