この聞き取りと理解のメカニズムについて、チョムスキー自身、あるいはチョムスキアン、またはそれ以外の誰かが答えを見つけたでしょうか。
もしまだ誰も見つけていなかったら、それを誰かが語った情報でも結構ですので、教えてください。
まだ誰も答えを見つけていません
議論自体は紀元前から始まってるので,かなりの難問です.
最近の動向については
"現代言語学"で検索すれば論文などが見つかります.
書籍なら 現代言語学の諸問題
http://www.sanshusha.co.jp/np/details.do?goods_id=1019
とか
address itself is this: a mature speaker can produce a new sentence of his
language on the appropriate occasion, and other speakers can understand it
immediately, though it is equally new to them … Grammar is a device that
specifies the infinite set of well-formed sentences and assigns to each of these
one or more structural descriptions. Perhaps we should call such a device a
generative grammar … which should, ideally, contain a central syntactic component
…, a phonological component and a semantic component.”
「どんな有意義な言語学の理論でも、扱わなければならない中心的な事実は以下のことだ:成人の話者は適切な場面でその言語に属する新しい文を産出することが出来、そして他の話者はそれを---発話者に対してと同様、新しい文であるのだが---即座に理解することが出来る。・・・文法はwell- formedな文の無限集合を特定し、その一つ一つに対して一つかそれ以上の構造記述を付与するデバイスである。おそらくそのようなデバイスを生成文法と呼ぶことが出来るだろう。そしてそれは、原理的には、中核的統語部門、音韻部門、そして意味部門を内包するはずである」
(邦訳は以下のサイトからお借りしました http://www4.synapse.ne.jp/nohoho/tanaka.html )
チョムスキーは、生成文法が、「統語と、音韻と、意味」の3つを規定するというふうに考えていたのでしょうか。
文法があるから、音韻があるということ?
音韻があるから、文法があるというふうには考えられないでしょうか
文法はデバイスでしょうか
文法はプロトコル、規則でしかなく、
デバイス(装置)は別にあるような気がします。
たとえば、ブロカ野が発話のための分節化のデバイスであり、
ウェルニッケ野が、聞き取りのための離散聴覚のデバイスである
ように