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明治維新に至るとき、王政復古の大号令で、それまでの摂政・関白は廃止になりましたが、五摂家が廃止になったわけではないですよね。しかし、その後、総裁・議定・参与の役職にも出てこないし、その後の明治の太政官制での、太政大臣・左大臣・右大臣にも、出てきません。なぜでしょう。摂家の人たちは、意図的に排除されたのでしょうか。


幕末政治では、近衛家、鷹司家などが、関白や内覧、大臣に就き、朝廷の政治で影響力を行使しており、個人としての政治的手腕(能力)もそれなりにあったと思います(摂家ですから、大中納言や参議には就いてません)。明治政府の太政官で太政大臣になる三条実美は、彼らよりは立場が低かったはずですし、岩倉具視も同様です。三条や岩倉としては、目の上のタンコブの摂家を排除したいという動機がありますけど。

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登録日時
2014-07-06 19:32:27
終了日時
2014-07-13 19:35:03
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近衛家7太政官6太政大臣10左大臣13岩倉具視6明治維新30右大臣12明治政府16摂政10三条31朝廷42幕末63参与13明治195関白8行使12総裁52

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