長いですよ。
コミュニケーションの問題についてどちらの責任などとするのはあまりよい考え方ではないですが、送信側が工夫することによって回避できるトラブルもあるかと思います。
少し話がずれるかもしれませんが、サイエンスコミュニケーションの問題とよく似ているように思います。
(仮説)
確証バイアスによるバックファイア効果かと思います。
3つめの、そして間違いなく最も強力なバックファイアー効果は、人々の世界観や文化的アイデンティティの感覚とを結びつい話題で起きる。いくつかの認知のプロセスで、人々は無意識にバイアスのかかった方法で情報を処理することがある。自分たちの見方に強固に固執している場合、対抗議論に直面すると、その見方を強化してしまうことがある。
この効果に寄与する一つの認知プロセスは、人々が自分たちの見方を支持する情報を選択的に探し出す、確証バイアスである。ある実験では、被験者たちは、銃規制や差別撤廃措置のようなホットボタンな問題についての情報を提示された。各情報は情報源が書かれていて、その情報が賛成か反対か(たとえば全米ライフル協会 vs 銃規制運動)明確にわかるようになっていた。両者を公平に提示したにもかかわらず、被験者たちは自分が元々持っている見方に合う情報源を選択した。この研究で、公平な形で情報を提示されても、人々は既に正しいと考えている情報に傾くことで、元々持っている見方を強化する。自分たちの見方を強く持っている人々の間で二極化が強く起きることがわかった。
もし、選択の要素を取り除いて、誰かに世界観に反する論を提示したら、どうなるだろうか? この場合、前面に出てくる認知プロセスは、反証バイアスすなわち、確証バイアスの裏面である。この場合、人々は非常に多くの時間を費やして、対抗議論に積極的に反論を考える。
忘却からの帰還 創造論/ID論 [旧サイト] - バックファイアー効果
(アイデアや提案)
いわゆる「欠如モデル」というものが解決のヒントになるかと思います。
誤情報についてのよくある誤解は、誤情報の影響の除去は、人々の頭に情報を詰め込めばいいというものだ。このアプローチは、大衆の誤解が知識不足によるものであると仮定し、その解決策はサイエンスコミュニケーションにおける、より多くの情報だというものである。これは「情報の欠如モデル」として知られている。しかし、このモデルは間違っている。ハードディスクにデータをダウンロードするように、人々は情報を処理しているわけではない。
忘却からの帰還 創造論/ID論 [旧サイト] - バックファイアー効果
科学技術社会論・科学コミュニケーションと呼ばれる学問分野がありますが、そこでは「知識の欠如を埋めれば、人々は抵抗感を示していた科学技術を受け入れる」という科学者がやりがちなパターンを「欠如モデル」と言います。
「知識」未満のフワッとした話をしながら、「とにかく大丈夫」と言い続ければ理解を得られるだろうという態度があったのは、「欠如モデル」のものすごくダメなパターンだったと言えます。 当然「適切な反応」などにはつながらない、逆効果でした。
【最終回】もはやメディアの「両論併記」型は、百害あって一利なし!|俗流フクシマ論批判|開沼博|cakes(ケイクス)
人々は自分たちにとって重要だという価値に基づいて行動うるので、自分たちにとって良いことだと感じるときについて短文を書かせることで、自己肯定は実現可能である。そうすると、人々は自分たちの世界観を脅かすかもいれないメッセージを、自己肯定なしにメッセージを受けた人々より、受容しやすくなる。興味深いことに、自己肯定効果は、自己価値の感覚でイデオロギーが中心となっている人々に最も強く出る。
情報を受け入れやすくするもうひとつの方法は、個人の世界観をより脅かさない形のフレーミングを行うことである。たとえば、共和党支持者は「税金」としてより「カーボンオフセット」として同額を課金する方を受け入れやすい。このような言葉使いは、民主党支持者や無党派にはあまり効かない。というのは「税金」という単語が民主党支持者や無党派の世界観を脅かしていないからだ。
忘却からの帰還 創造論/ID論 [旧サイト] - バックファイアー効果
つまり、送信側が「ただ正しい情報を伝える」だけだと、欠如モデルの欠点であるバックファイア効果を呼び起こしかねないということです。
私は「と学会」について、ニセ科学や陰謀論の存在を世に知らせた功績を高く評価しています。しかし一方でバックファイア効果により「帰ってこれない場所」まで行ってしまったトンデモさんも数多くいると思われ、これは「と学会」の罪だろうなあ、と思っています。
さて、欠如モデルを理解し、バックファイア効果を呼ばないようにと注意していくと陥りがちなものに、相対主義があります。
知識・良識がある人が、知識・良識があるからこそ、色々なバランスを気にしすぎて、歯切れ悪く「それぞれの判断を尊重して判断・行動していくべきだと思います」という場合もあります。
いずれにせよ、「こういう人もいれば、逆の人もいる」「それぞれの判断を尊重して」というのは便利な言い回しです。
これは相対主義的なもの言いだと言ってよいでしょう。「Aという考えも、Bという考えも、Cという考えも尊重されるべき」というのが相対主義です。 逆に、絶対主義は「Aという考えのみが尊重されるべき。BやCの考えは許容されない」というものです。
「それぞれの判断を尊重して」というのは前者です。
そして、これからは、「科学的な前提にもとづく限定的な相対主義」に移行すべきです。
「限定的な相対主義」というのは、絶対主義のようにほかの可能性をはじめから排除するようなことはしないが、明確にわかってきていることは前提におきながら議論の精査をすることです。
なんの精査もせずに「Aという考えも、Bという考えも、Cという考えも尊重されるべき」と言い続ける時期ではありません。
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味噌の味の話をしてる時に、「やはり八丁味噌が一番だ」などという相手の世界観を壊す事を恐れて「味噌もクソも一緒」みたいな結論をしても仕方がありません。とりあえず前提として「どうやら、味噌とクソは別物と考えてよさそうだ」という、ある程度土台と出来るような蓋然性が高い前提をひとつひとつ積み上げていく、そういう作業が必要になるのではないでしょうか。
根拠のない命題に、議論の余地はありませんから。
んー。結局のところアポロについてはもうどうでもよくなってしまったのでしょうか?
それはそれとして、命題を提示する時に、注意すべきことの一つに、
「たてた命題が適切かどうか」ということがあります。
>「放射性物質による食品汚染が体に悪い、悪くない」
という命題は、「悪い・悪くない」どちらでもありません。
なぜなら、放射性物質の人体に与える影響は当然ながら量に左右されるからです。
そうでないと、われわれはおちおちバナナも食えません(バナナは天然の放射性物質を多く含む代表的食品です)。
これは、次の命題が大変馬鹿馬鹿しいのと同じです。
「塩の食品への添加は体に良いか、悪いか」
特に科学の問題において、正しい問いを考えることは大変に大事なことです。
誤った前提からはどれだけ思考や議論を重ねても必要な結論は得られないのです。
もちろん、宗教の教義として、「放射性物質による食品汚染が体に悪い、悪くない」を定める、
という事であれば一向に構いません。
ただし、科学的に問題がない量を摂取している人に、自分の信じる教義と違うからと言って説得を試みたりしなければ、ですけど。
けっこう面白い、有意義な意見が出たと思います。