古いけど、青い芝生の会の「われらは問題解決の路を選ばない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E5%9B%BD%E9%9D%92%E3%81%84%E8%8A%9D%E3%81%AE%E4%BC%9A
問題提起する側の人の役割は問題提起までであって、問題の解決方法は関係者全員で考えましょうね、被害者に解決を押し付けないでね、という思想。
あとは一般的なたとえ話として「電車の中で足を踏まれたら、踏まないでと言うまでがあなたの仕事。踏んでいる足をどかす方法を考えるのは相手の仕事」のような格言がありますね。
そう難しく考えずとも、簡単に対案が出せるなら問題などないわけで、対案が出ないからこそ問題は問題として存在しつづけるのだと考えれば、「(存在しないはずの)対案を出せ」というのは「解決に向けて努力する気が無い」とイコールですね。
「対案を出せ」はほとんどの場合「(問題解決する気は無い。俺達の既得権益を害さない範囲での)対案を出せ」なので詭弁と呼ばれます。
一方、「君は今後どうして行きたい?お互いの利害を洗い出し妥協点を見つけよう」という意味での「対案を出せ」であれば望ましい「対案を出せ」であると言われます。政治や経済でこのような使われ方を見ることはほぼありませんが。
これの事かい?
https://togetter.com/li/846566
新法それ自体に反対だから
法案を阻止するために反対しているというのに
そこで別の対案出せという主張が出てくるのはのは頭がおかしいんだろう
これがもし改正法の審議だったら
反対するなら対案をというのは至極真っ当な主張になると思う
要するにケースバイケースだよ
「怒らないでしゃべらないと話を聞いてあげないよ」は差別される側からみれば不当な取引、不当な負担を強制されているのだというアメリカ発の主張を最近見かけました。
怒りを禁止する=否定、話=代案とすればこの質問とほぼ同じ話のようですが、文言と状況が違いますのでこの質問の答えになっているかはわかりません。 代案はすぐには出てこない(くるわけがない)から、いろんな立場の人みんなで考えなきゃいけない難しい問題だ、という場合にはどちらも詭弁でしょう。
…… 対話の基本は、5W1Hです。Who(誰が)Whom(誰を) Where
(どこで)Why(なぜ)When(いつ)How(どのように)
http://q.hatena.ne.jp/1202388784#a800776(No.2 20080207 23:31:20)
論理的に考えるには、いつもおなじ手順が基本です。