「英語が話せないと恥ずかしい」
「英語は話せるのが当たり前」
「英語がぺらぺらなやつはかっこいい」
世間にはそんな雰囲気はありませんか?
何年も英語を勉強しても何かの役に立つ意思疎通レベル (たどたどしくも英文メールが出せる、海外の空港やホテルでトラブルを乗り切るなど) に達しない人が多いように思うのですが、いっそのこと英語の学習は中学校からに戻して、さらに選択授業にするというのはどうでしょうか?
1年生の時にはアルファベットと簡単な会話だけを覚えるとして、2 年生以降は外国語を選択させる。英語を受けない人は、ほかの外国語から選ぶとか。
国際社会で英語が必要なのはわかりますが、身にならないことを延々と続けても意味がありませんし、時間とお金の無駄ではないでしょうか。
今の英語教育では、「英語は話せなくても恥ずかしくない!」と思います。
小さい頃から「国際化の時代に君たちは~云々」とかいう説教を食らいながら、そのくせ成果のでない英語の授業を受けている子供がかわいそうではないでしょうか?コンプレックスを植え付けられているかのようです。
賛成・反対、いろいろ意見をお願いします。
全く同じ意見です。
加えて言わせていただきますと、「今の英語教育では」という点で、英語が話せなくて恥ずかしい場面に居合わせる子供がいるとすれば、それは、別のスレッドにもありますように、”英会話教育”に通ずる環境にある子供でしょうね。
親の「したほうがいい」「しなさい」は、子供の(人生の)時間の過ごし方に大きく影響しますが、当の子供本人は、親の言うことを自分の意思を決定付ける材料にはしていないと思います。
大人の知っている世間では、たしかに英語が話せると立場がよくなる機会はあると思いますが、子供の世界では、自慢のタネぐらいにしか機能していないんじゃないですかね。
年齢にもよりますが、純粋に自分の意思だけで英語を話せるようになりたいと強く願っている子供なんていないと思います。
かと言って、成果のでない英語の授業を受けている子供がかわいそうとも思いません。
私個人としては、小さな子供の英語教育は無意味と思っていますけど、一般的には、親がしたほうがいいと言えば、子供も「きっとそのはず」という反応をしていると思います。
「英語がぺらぺらなやつはかっこいい」からこそ、スポーツ選手が「海外」のチームに移籍したときや、「海外」の大会に出たときに、記者会見などで「流暢な英語」で何かを語った場合に「堂々と英語で会見!」とかっていう「かっこいい」系ニュースになったりもするのだろうと思いますが、一方で/同時に、その選手の英語が「日本人なので英語はできません」的なたどたどしいものだった場合に、「英語はまだまだなようです」という基調で報道されたりもしていて、何が何だかよくわかりません。
「流暢な英語」が「かっこいい」とされていることはわかるのですが、では「たどたどしい英語」は「恥ずかしい」のかというと、必ずしもそうではないような…… he's one of us的な意味で、「親しみやすさ」を呼んでいることもありそうです。しかるに「恥ずかしい」というのは、「自分」が主語のときと「第三者」が主語のときとでは何かが違うし……
って、この投稿内容ではご質問の本題とは外れていますね。本題のほうはまた改めて投稿します。
「英語がぺらぺらなやつはかっこいい」は確かにありますが、
「英語が話せないと恥ずかしい」「英語は話せるのが当たり前」はどうでしょう?
少なくても私の周りにはそんな雰囲気ないです。
逆に「英語が話せないと恥ずかしい」「英語は話せるのが当たり前」という
雰囲気であるとしたら日本の英語教育は素晴らしいという事になるのでは?