作品全体を通して美文だと思う小説とその作家名を挙げてください。故人生人は問いません。




目にしろ耳にしろ、日本の古典には味わわれるような文章がたいへんに多い。いわゆる美文と称されるものはその代表的なものであって、内容などはどうでもよく、ただ味わうために作られた、ちょうど見るための美しい日本料理のようなものであります。われわれはなんでも栄養があるものしか取ろうとしない時代に生まれていますから、目で見た美しさというものをほとんど考えませんが、文章というものは、味わっておいしく、しかも、栄養があるというものが、いちばんいい文章だということができましょう。      三島由紀夫 文章読本より

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回答15件)

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夏目漱石「草枕」 iijiman2008/09/01 21:06:52ポイント4pt

私は漱石をすべて読破したという訳でもなく、たいした読書家でもないのですが、この作品を特に美しいと思いました。

読んでみた感想として「この作品は『美しい文章』を徹底的に極めようとした作品」なのではないか?という気持ちになりました。

それくらい、美しいです。

草枕 (新潮文庫)

草枕 (新潮文庫)

ピアニストのグレン・グールドが愛読したというのも、何となく「そうだろうなあ」と頷ける気持ちがします。

「草枕」変奏曲―夏目漱石とグレン・グールド

「草枕」変奏曲―夏目漱石とグレン・グールド

私もそう思います jossie2008/09/02 23:28:58ポイント1pt

私も、この質問を見てすぐに、「草枕」を思い出しました。

他の方の引用している冒頭部分など、本当に美文だと思います。

草枕 賛同! akauo2008/09/01 23:14:37ポイント2pt

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画(え)が出来る。」

冒頭の、漱石の芸術家宣言、カッコイイ。

「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。・・・」

夏目漱石、『虞美人草』 nofrills.seesaa.net2008/09/01 23:21:24ポイント1pt

漱石と「美文」で連想される作品に、『虞美人草』があります。『草枕』の翌年に発表されていますが、文体はまるで別人です(何かのパロディかもしれないと思うほど)。登場人物の会話が「何の変哲もない話し言葉」(のように見えることば)である一方で、地の文の部分の装飾的なことばの使い方(特に藤尾の描写など)は、読んでいて息苦しくなるほどです。文章が与える印象が、藤尾という女性の性格付けに大きく寄与しています。好きな作品かどうかは正直微妙ですが、最初に読んだときに、すごい作品だとは思いました。ゴシック・ロマン的というか。


この小説の「七」に、有名な、「小説は自然を彫琢する」ということばが出てきます。かなり長くなりますが、以下、引用します。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/761_14485.html

 燐寸(マッチ)を擦(す)る事一寸(いっすん)にして火は闇(やみ)に入る。幾段の彩錦(さいきん)を捲(めく)り終れば無地の境(さかい)をなす。春興は二人(ににん)の青年に尽きた。狐の袖無(ちゃんちゃん)を着て天下を行くものは、日記を懐(ふところ)にして百年の憂(うれい)を抱(いだ)くものと共に帰程(きてい)に上(のぼ)る。

 古き寺、古き社(やしろ)、神の森、仏の丘を掩(おお)うて、いそぐ事を解(げ)せぬ京の日はようやく暮れた。倦怠(けた)るい夕べである。消えて行くすべてのものの上に、星ばかり取り残されて、それすらも判然(はき)とは映らぬ。瞬(またた)くも嬾(ものう)き空の中にどろんと溶けて行こうとする。過去はこの眠れる奥から動き出す。

 一人(いちにん)の一生には百の世界がある。ある時は土の世界に入り、ある時は風の世界に動く。またある時は血の世界に腥(なまぐさ)き雨を浴びる。一人の世界を方寸に纏(まと)めたる団子(だんし)と、他の清濁を混じたる団子と、層々相連(あいつらな)って千人に千個の実世界を活現する。個々の世界は個々の中心を因果(いんが)の交叉点に据えて分相応の円周を右に劃(かく)し左に劃す。……縦横に、前後に、上下(しょうか)四方に、乱れ飛ぶ世界と世界が喰い違うとき秦越(しんえつ)の客ここに舟を同じゅうす。甲野(こうの)さんと宗近(むねちか)君は、三春行楽(さんしゅんこうらく)の興尽きて東に帰る。孤堂(こどう)先生と小夜子(さよこ)は、眠れる過去を振り起して東に行く。二個の別世界は八時発の夜汽車で端(はし)なくも喰い違った。

 わが世界とわが世界と喰い違うとき腹を切る事がある。自滅する事がある。わが世界と他(ひと)の世界と喰い違うとき二つながら崩れる事がある。破(か)けて飛ぶ事がある。あるいは発矢(はっし)と熱を曳(ひ)いて無極のうちに物別れとなる事がある。凄(すさ)まじき喰い違い方が生涯(しょうがい)に一度起るならば、われは幕引く舞台に立つ事なくして自(おのず)からなる悲劇の主人公である。天より賜わる性格はこの時始めて第一義において躍動する。八時発の夜汽車で喰い違った世界はさほどに猛烈なものではない。しかしただ逢(お)うてただ別れる袖(そで)だけの縁(えにし)ならば、星深き春の夜を、名さえ寂(さ)びたる七条(しちじょう)に、さして喰い違うほどの必要もあるまい。小説は自然を彫琢(ちょうたく)する。自然その物は小説にはならぬ。

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