1、「何者をも束縛しない。」という価値観は、何者かを束縛しないのか?
2、「絶対正しい物なんてない。」という価値観は、絶対正しいのか?
3、「どんな価値観をも許容し認めます。」という価値観は、他の価値観に排他的な価値観をどこまで許容出来るのか?
これらの疑問をスッキリさせて下さい。
直接の答えではないですが、たとえば「言論の自由」という場合、どんな言論の自由でも認めるということではないです。「他人の言論の自由を妨害するような言論」は許されない、と考えるのが普通です。そうしてはじめて「言論の自由」は許される。
他には、自由主義経済という場合も、どんな経済活動も認めるということではないです。たとえば独占禁止法というのがありますし、ダンピングで競争相手をやっつけるという活動も認められないのが普通です。
このように、できるだけ広範な自由を認めるために、その自由をつぶしてしまう行動は禁止するというのが、結果として最大の自由につながる、というふうに考えられて、実際に国際社会で語られる「○○の自由」というのは、そういうものとして運営されています。
単にどんな価値観でも「その価値観を持つこと」を認める。と言うことでは?
ユダヤ人を排斥するという価値観を認めるとする。
もし認めるということが「私もユダヤ人を排斥する」という信条を持つことを意味すると、ユダヤ人という価値観を認められなくなるので、この宣言は破綻する。
一方、世の中にはユダヤ人を排斥したいと思う人もいるのだ、ということを認めるのであれば、この宣言は破綻しない。
故に「行動し受容しない承認」は承認に非ずという価値観を持つ人に対しては矛盾をはらむことになる。平坦にいうと「心の中でいろいろ思うだけのヒトなんて無意味。認めるんなら、ユダヤ人を殺して見なさい!」という人をどう扱うかということ。「そういう考えもあるよね」で済めば、依然この宣言は破綻はしない。
3、「どんな価値観をも許容し認めます。」という価値観は、他の価値観に排他的な価値観をどこまで許容出来るのか?