行きたくない、勝手に決められた、人を裁くのはこわいという気持ちは分かります。
私だって行きたくないし。人を裁くなんてこわいと思います。
でもね。国民のための制度だと思うんだけど。
裁判の結果がおかしいと思ったことがあるんじゃないかと思うんだけど。
国民の意識の集合体と、裁判の食い違いをうめるための制度だから。
陪審員制度を無視しようというのは国民主権を放棄しようというのに等しいと…
思うんですけどどう思いますか?
政府等には、国民の意識を無視して制度を作ろうとしないで欲しいと思いますね。
ふと陪審員という言葉を使いました。
日本の制度が正確には陪審員でないというのは知っています。
ただ十分な知識をもっているかどうかは分かりませんが。
「よく陪審員と間違われているので、ふと陪審員という言葉を使いました」というのが、理解できません。あえて間違った使い方をすることにメリットはあるのでしょうか?
裁判員制度は陪審員制度とは似て非なるものです。参審制とも違います。
この点は、公式ホームページ自身が
裁判員制度は,参審制・陪審制のいずれとも異なる日本独自の制度
と明言しています。
参審制並に責任が重いのに、陪審員制のような選任の仕方で良いのか、という議論があってしかるべきなのですが‥‥。
有名な言葉に置き換えて使ったという事ではないでしょうか?
シーエースも、シーグルメも、その他のツナ缶も、すべて「シーチキン」と呼ぶ人も多いじゃないですか。
そして、その方が会話が成立しやすい場面も多いです。
陪審員と裁判員は、混同してはいけない似て非なる点があり、そこに重大な問題点が含まれているので、
pahooさんがおっしゃりたい事も分かります。
陪審員制度と裁判員制度が違うということは勉強していたのですが。
普段人と話すときに陪審員制度と言っていました。
他人も陪審員制度と良いながら裁判員制度を話していました。
だからふと使ってしまいました。
揚げ足取りで申し訳ないのですが、日本の制度は「陪審員」ではなく「裁判員」制度――。
質問者がそれを承知で書いているのだとしたら、裁判員の方がはるかに責務が重いという点を裏読みして回答しなければいけないかな?