何度もすみません、先の回答に補足します。
ちなみにドイツでは「二度あることは三度ある」を
"Ein Unglu"ck kommt selten allein"(悪いことが重ならないことはめったにない)と言うようで、他の諺では"Aller guten Dinge sind drei"(良いことはすべて、三つ重なる)というものがありますが、先に書いた「二度あることは三度ある」と使われるシーンは異なり、この諺は良いことの場合にのみ用いられるようで、これも文化の違いが見て取れます。
http://blog.mag2.com/m/log/0000076154/91059055
あと一つの参考として「日英仏語の諺における対照分析」
http://ibuki.ha.shotoku.ac.jp/~hisano/kotowaza.html
というものもあり、この中では「二度あることは三度ある」という諺、"Never twice without three times"は欧米語源であると書かれていますが、その根拠がこれだけではよく分かりませんでした。私見ではおそらく旧約聖書を指しているのだと思われますが、個人的にはこれも一説に過ぎないという気がします。というのも、宗教でも、昔話でも、時代背景や離れた大陸など違えど同じような話が出てくる事が多々あり、経験則から出てくる言葉には同じような意味を持つことはありえると思うからです。
ちなみに、もう一つの諺「三度目の正直」ですが、近隣諸国の故事として「三顧(さんこ)の礼」という諺もあるかと思います。
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/kaidokupeji.htm
『三国志』の蜀(しょく)の劉備(りゅうび)が諸葛孔明(しょかつこうめい)を軍師として迎えたときのこと。劉備は吹雪の中、孔明の草庵を訪ねましたが、二度までもすっぽかされてしまいます。劉備の義兄弟の関羽や張飛は腹を立てましたが、劉備は、どうしてもこの人物は必要だから会えるまでは何度でも行くと言い、三度訪ねてやっと会うことができました。そして劉備と孔明は、生涯にわたる君臣関係を結んだのです。
最後に
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/kamenoi-masafumi/michihiraki/%8E%91%9...
からの抜粋。
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陰陽道に貫かれる一つの中心的セオリー(理論)は、「この世のあらゆるものは陰と陽との相生・相剋(生助・対立)によって成立している」ということである。よって、人の心とてもその例外ではなく、陰の部分からなり、常に対立、融合を繰り返し、互いに影響し合っている。そして、人の世は、それら一人一人の陰と陽の心が複雑に絡み合い、互いに影響し合って成り立っているという。”呪い心”は、人の持つ「陰の心」の最たるものであり、この精神作用の周囲に及ぼす影響たるや、凄まじいものがあるといわれます。この精神作用の凄まじさを端的に現した言葉に、「人を呪わば穴二つ」という諺があります。人を呪う陰の心は、その心ゆえに陰の事物を引き寄せてしまい、結局は人を呪う心が自分を呪う結果を招くということになるというのです。それを逆説的に言えば、”愛の念”は愛を呼び、”感謝の念”は感謝の心を呼び、強いてはそのような良い事柄をも呼び寄せるということになるようです。こういった、”呼び寄せる”という意味からいうと、「類は友を呼ぶ」という諺も一つの真理を現しているようです。これは、昔ながらのあらゆる宗教においても、ごく新しいスピリッチャリズム(心霊科学)や神智学といったもの、今はやりの波動学などの基本理論でもあり、物理や化学などの自然科学の理論とも相反するものではないようです。
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というように一見矛盾するような諺があるのも、一つの諺にしても、物事は一つの側面からのみ見てはならず、全ては表裏一体であるというところに話しが結びついていくのではないかという気がします。
以上、ご参考になれば幸いです。
ご回答有難う御座います!!
こんなにもの国々にも、同じ意味の諺があったのですか・・・。
まぁ確かに、「三度目の正直!頑張って来い!!」と言われて失敗してしまったら、諺の威厳(?)が無くなってしまいますからね。