1番目のは現状分析ぽいですね。
2番目のひとはライブ好きな人なんですねぇ。
ありがとうございます。
うーん。。
私と感性が違うのかな?
ありがとうございます。
http://www.ulis.ac.jp/~amy/jugyou/bandai.html
<「笑い」について ~「笑い」を分析する~>
http://www.pref.osaka.jp/seisaku/brand/15etou.html
大阪府/ ご指定のページは移転しました。
直接的ではないかもしれませんが………。
2番目のジャンル分けがいいですね。
ボリュームがもっとほしかったですけどね。
ありがとうございます。
先生がこんなサイトを、、
と思ったら本を4冊も出してる・・・
これも読んでみましょうかね。
ありがとうございます。
こちらはいかがでしょう?
お笑いの人たちについて、個人・コンビ単位で具体的にどこがどう面白いのか分析されているようです。
残念。なんかリンク切れ?しているようです。
ちょっとは読めるのですが。
芸人ファイル?はなかなかです。
ありがとうございます。
サイトではないのですが、『文脈病』斎藤環(精神科医)著から回答の一つとして該当し得るのではないかと思う部分を引用してみますね。
『ぷりぷり県』などで知られる吉田戦車について論じられている箇所です。
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(吉田戦車の人気は、出版社のマーケティング戦略として仕組まれたもので、たとえば『不条理日記』の作者である吾妻ひでおの焼き直しにすぎないと断じた大塚英志を引き合いに出して以下のように述べています。)
しかし、それはどうだろうか。私には吾妻作品も面白く読めるが、その「不条理」性は、完全に神経症的なものと「診断」できる。
「神経症的」とは、ここでは「笑いの原因を言葉で説明することができる」というほどの意味である。
いっぽう吉田戦車の諸作品のもたらす笑いの核心を、言葉によって説明するのはきわめて難しい。そこには単なるミスマッチの笑いとしても掬いきれない「不気味なもの」の手触りが残る。
─略─
述語の類似というイコン的成分が強調され過ぎることで主語の同一性が著しく混乱させられるのである。吉田の作品を詳細にみてゆくと、こうした述語成分の不自然な強調や歪曲をいたるところで指摘できる。ここで笑われる「笑い」とは、世界の同一性が決定不能のゆらぎにさらされる瞬間の、いわば恐怖とすれすれの笑いにほかならない。
─略─
後にふれるように、人間がふたつのコンテクストの衝突において決定不能の状態に陥ることを、ベイトソンは「ダブル・バインド」と呼んだ。そして周知のようにベイトソンは、ダブル・バインド理論を分裂病の病因論として展開したのである。ギャグ漫画家もまた、新たな笑いを生み出すべく、意図的にダブル・バインド状況を追及する。彼らは描かれる対象の意味を、二つがそれ以上のコンテクスト性の中で宙吊りにする。そこで発生する決定不能な意味の振動、その振幅が大きいほど、笑いも大きいものになる。そして、そのような技法の追求の果てに、吉田や榎本をはじめとする複数の作家が「漫画の分裂病化」に至ることは、むしろ必然的な帰結と言いうるだろう。
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ついでに、もう一つ。『OK?ひきこもりOK!』という本からです。
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宮台─話は飛びますが、お笑いを語ることでも、教育問題は論じられます。お笑いの本質は、互いに共有すると期待される無害なズレから生まれます。お笑い番組の歴史を見ると、80年代のお笑いブームの最中にビートたけしが「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と言ったとき、戦後市民派的な建前を共通前提としてズラシによる笑いを取った。でもいまじゃそんなことでは誰も笑わない。冷戦体制崩壊以降もはや誰も市民派的前提を信じないからです。同じことは古参のタモリにもいえて、お座敷芸的な形態模写を赤塚不二夫に見出されるわけですが、イグアナや名古屋人を誰も知らなかったり、僕みたいな人間が大学教員をやる昨今ではまったく笑えません。そこで今日主流のお笑いは、85年に『ひょうきん族』で登場した明石家さんま的なものです。要はさんまという人間に誰もが抱く擬似パーソナルな愛着を前提に、ボケたりツッコミを入れて笑いを取る。だからこそ『恋のから騒ぎ』的な視聴者参加形式が必要とされるわけですね。共通前提の崩壊にどれだけ敏感たり得るかが、教育者の資質を分けるところだと思います。
斎藤─ネプチューンでもダウンタウンでも、現代のお笑いに、共通の前提はないのでしょうか。
宮台─ないでしょう。ロンドンブーツにしても、さんまの延長です。唯一例外は爆笑問題ですね。たとえば政治ネタに言及するでしょう。「神の国」発言なんか40年前だったらお笑いは皆言及したはずですが、いまはやばくて言及しない。
斎藤─やばくてですか。
宮台─そうです。ひとつは、政治的圧力を怖れる制作者側の腰抜けが理由です。もうひとつ、お笑い側に、政治は共通前提にならないという思い込みがある。爆笑問題は、まず田中裕ニが教育的に政治問題の解説をするんですね。政治的な共通前提が成立してないからこそまず受け手を教育した上で、大田光がボケ、それに田中がツッコミ、笑いを取るんです。
斎藤─笑いにもまず教育が必要なわけですね。
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教育のくだりはなるほどと感心しますねぇ。
わざわざ本から引用していただき、ありがとうございます。
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『たけし吼える!』(発行日/昭和59年)より
─田原総一郎も鎌田慧もタテマエだけの書き屋─(目次)より
オレの毒は権力的で価値観の転倒を目論むものではないっていうんだろう? 権力とか体制とかってものに対して卑屈だっていいたいんだろうな。
─略─
トップ・ライトが政治を笑ったっていったって、誰が笑ったの。お笑いっていうのは、やる本人が笑っても意味ないの。笑わせることがお笑いなんだから。トップ・ライト見て誰が笑ったっていうんだ。誰も笑わないって。
─略─
権力を笑うっていうのは、所詮そのくらいのことだね。笑っちゃいないんだよ、シンからは。みみっちいんだよ。
─略─
オレがどこで働いてるか、少しは考えてみろってんだね。要するに、オレの現場ってったらマスメディアだろ。テレビ媒体、マスコミ媒体。これほど権力とからみのあるとこってないんだよ。世の中を動かしてるやつらとくっついてるとこじゃない、いちばん。鎌田なんかは、同人誌に毛の生えたようなところで受けようとしているんだろうけど、オイラは違うの。ケタが全然違うところで受けなくちゃいけないワケ。
─略─
笑った時点で完成するのがお笑いなんだけど、このバカどもは一生懸命に「事後処理」しようとするわけね。その実、そのテの連中は「自己処理」をやってるんだよ、観念の。何が評論家だよ。漫才にしろ小噺にしろ笑ったあとのアフターケアなんてないのよ。
─略─
道歩いてるとウンコみたいのが落っこちてる。あ、あれウンコじゃないか。どれどれ、ちょっと指で突っついてみる。指にくっついたのを舐めてみる。
「ああ、やっぱりウンコだ。よかった、踏まなくて」
ここで笑うやつは笑うじゃない。笑わないで考えるバカもいるってことだな。
「そりゃ踏んづけないでよかったけど、舐めちゃったのはどうなるの?」
これはもうお笑いでもなんでもない。もうダメ。鎌田なんとかなんていう連中はそういうことをいってくるやつらなんだよ。
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『ビートたけしのみんなゴミだった』(発行日/昭和59年第5刷)より
─センス─(目次)より
誰もが共通して印象に残ってるイメージをスッと取り出してやる。ああ、昔こういうのがはやってたな、とか。そういうイメージをすくってやると、懐かしい感覚と、そのイメージを不意にまったく違ったイメージと結びつけられることとのギャップで笑っちゃうんだよ。
これは頭で考えることじゃなくて、なんていうか、人間の生理的な部分に直接訴えるやり方だけん。
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ビートたけしも本を書いてたんですね。結構古い。
断片的だとよくわかりませんねぇ。
これも本を読みましょうか。
ありがとうございます。
残念。2番目の回答と同じところですね。
でも、ありがとうございます。
みなさまありがとうございました。
こんな本がでてるんですねぇ。
早速買ってしまいましょ。
ありがとうございます。