「no music, no life」というコピーがあります。


・この社会には耳の不自由な方もいる
・耳が不自由でもさまざまな方法で音楽を楽しんでいる方もいる

という点を踏まえてこのコピーについて自由に議論してください。

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  • 終了:2006/05/12 13:35:03
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回答18件)

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音楽のバリアフリー化に向けた作り手側の努力 TomCat2006/05/06 11:34:58ポイント1pt

私は音楽が好きで、それこそ音楽がなければ生きている価値がない、

くらいの生活をしています。

でも、私だって中途失聴する可能性はある。

もし自分が聴覚障害を負ったら、それで私の音楽は取り上げられてしまうのか。

そう考えると、怖くなってしまいますよね。

「no music, no life」というコピーには、

たしかにそういう怖さが隠れているのかもしれません。

 

しかし、それじゃ、走ることが好きな人に、

走ることは爽快だ、生きている喜びを感じる、

と言ってはいけないのか、という話にもなってきます。

 

人は誰でも明日には障害を負う可能性があります。

出会い頭に車にでもはねられてしまえば、

もう明日から歩けなくなるかもしれません。

 

しかし、障害者スポーツは盛んです。

ある程度の運動機能があれば、ただのスポーツファンとしてだけでなく、

競技者としてさえ参加していくことが可能な時代になってきています。

今はもう、誰にスポーツの素晴らしさを語っていっても、

失礼でも何でもない時代になっているわけです。

 

「no music, no life」というコピーを考える時、

音楽にも、そういうバリアフリー化が必要ではないか、

という気持ちが湧いてきます。

 

耳で楽しむだけでなく、他の感覚でも楽しめる音楽性の追求。

そうして高めていく音楽性の新しい方向性。

これの確立が、これからのミュージシャンにとって

最も熱い分野になってきてもいいんじゃないかと。

 

たとえば、ただ、いい詞を書こうとするんじゃなく、

音に乗せなくてもそこに音楽のある詞を書いていく

というあり方を追求していくこと。

 

いい詞を書きたいというミュージシャンはたくさんいます。

そこを一歩進めて、それが音楽のバリアフリーなんだ、

というスタンスで書いていくということ。

この意識を持つだけで、ずいぶん時代は動いていくんじゃないかと思うんですよね。

 

あるいは、メディアミックスの取り組み。

最近は多くのミュージシャンが新曲のたびにPVを発表します。

これをただの宣伝用と位置づけず、映像として音楽を表現していくという取り組み。

映像だけを見ても音楽の持つメッセージが伝わっていく作品の追求。

楽曲の付属物ではなく、それそのものが独立した作品としてリリースされていくPV。

曲を作る時からそれを意識して作っていくこと。

これで、音楽の世界が何回りも大きくなっていくことでしょう。

 

そうした音楽の可能性を広げていく作り手側の努力が、

「no music, no life」というコピーを、

ただのレコード屋の宣伝文句から

普遍的な文化の基礎のひとつに格上げしてくれることに

なってくるのではないかと。

そんなふうに思ったりするわけです。

 

私はアマチュアですが、自分で曲を作り、歌います。

その立場でこのコピーを見る時、

作り手側の意識の改革が求められていることを感じます。

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