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> * 大学の教員はたいてい研究者
高校までの教員は、教育理論、教育実習を経て教員免許を取得し、 そして教員採用試験に合格し採用される、という過程を経ていて、 よって教育のための勉強をかなりしていて、教育者として仕事を行っている。
しかし、大学の教員は教育が素晴らしいから、ということで 採用されるのではなく、一般には研究が素晴らしいから、ということで 採用されるのが普通である。 それには教員免許などは必要ではないし、教育のための勉強をしていようが いまいが関係なく、通常は教育の資質を判定されることはない。
立派なスポーツ選手が必ずしも立派な指導者ではないのと同じで、 立派な研究者は、立派な学生だったかも知れないが、必ずしも 立派な教育者ではない。
高校までは「授業」といい、大学では「講義」という。この字の意味も、ある意味でその違いを表している。「新漢和辞典」(大修館, 諸橋轍次他著) によれば
授業
学業を教え授ける
講義
文章や学説の意味をとき明かす (「義」=「意味」、 「講」=「とき明かす」)
とある。つまり、学問で使われる方法などを授けるところまで行う場が「授業」であり、学問の内容、難しい話を解説する、というところまでしか行わない場が「講義」であるということになる。
高校までの授業は、道具の使い方を学ぶという意味が強いので「授業」という言葉を使い、大学の講義は理論の解説という意味が強いので「講義」という言葉を使っているのであろう。
大学の先生は、ぼそぼそやる気なさそうにやって楽そうでいいなあ
と思いますよね。
が・・・・専任教員になるのは宝くじ並みの倍率です。
一人公募でひとつの大学に100人は余裕で集まります。
それまでに修士で修士論文。博士課程で学会発表、博士論文(これがまた大変)と、専門雑誌に投稿して2点以上は掲載されねばなりません。
教授の世界は政治集団のようなもので、自分のつく教授や他の先生との権力・師弟関係が中高とはまったく異なる面です。、院生がいろんな面で尽くさなくてはならないのです。
その上で博士号をとり、さらに研究成果を出さないといけないわけで、論文を5、6本は最低必要となるわけです。
つまり大学の先生は、これまで蓄積した論文が研究成果として認められることが雇用の最低条件となるので免許や筆記試験などはありません。
なんとなく分かりました。
こちらのページには、このように書いてあります。
http://tnk32x.exblog.jp/2185604
大学の教師の場合は、学歴が不要で、教員免許や資格がいりません。
もちろん国立大学も私立大学も同じです。
この理由は、大学教授は教育者ですが、研究者です。研究者の業績は試験では判断できません。
結果、その個人を大学の教師として採用するかを決めるのは各大学の教授会なのです。
私は、こちらの考え方に共感しますが・・・
http://mytown.asahi.com/tama/news.php?k_id=14000150611060002
ところが、ほとんどの大学教員は研究を続けたいから、その手段として大学教員になった人が少なくない。教育はサービス業だということを理解し、実践している教員が少ない。
よく言われている10年前のノートをただ読んでいる教授がいることもその一つの表れであろう。
大学のきまりに「教授になるには博士号を取る」というのがあるが、それは違うので、「大学教授になるには大学教員免許を持つこと」とすべきなのだ。
研究者は教えるべきことはわかっている人が多いとは思うが、どう教えるかについては各人に任せられている。
ほとんどの教員は、自分が学生のときに教えられた体験をもとに自分のスタイルをつくっていると思う。しかし、それだけでいいのだろうか。いくつかのスタンダードをつくる必要があるのではないだろうか。
回答ありがとうございます。
なんとなく分かりました。