お釈迦様の体得した悟りは、所を日本に移せば、修験道や神道における禊のようなものかもしれません。文明的なものを、禊ぎ、祓い、清めて、1匹の生物になりきる。言葉のない世界を生きる。
悟りと禊ぎは、同じものだから、天台宗では今でも千日回峯行が尊ばれるし、禅宗は言語を使うなというわけです。
さて、このように禊ぎや悟りを理解したときに、言語以前の人間の心や感情と、言語が生まれた後に形成される意識とを、別々のものとして扱うことが望ましいと思います。言語以前と言語以後とをうまく言い表す言葉を教えてください。
(ひとり一回だけにしますので、ご自身の言いたいことを、要点を明確にわかりやすく書き込みお願いします。)
そしてそれは「分かった」つもりでしかないのかもしれない。
日本語の「心」は、「言葉以前の感情や感覚」と、「意識作用」の両方が混じっているように思います。
心の分析、解析を行なって、言語以前の部分の心と言語以後の部分の心を、分けてかんがえると、
悟りに到達できるのかもしれない。
僕も別に宗教の専門家ではありませんが、仏教の修行も、神道の禊ぎ修行も、どちらもやってみて、
基本は「意識を吹っ飛ばす」ところにあると感じています。
お経も、念仏も、座禅も、滝に打たれるのも、山を歩くのも、大声を上げて叫ぶのも、
意識をぶっ飛ばして、自分自身の中にある動物の部分に気づくと、
それが実にまっすぐで美しく輝いている命そのものであるとわかる。
この点では、あまり言葉で説明しない日本の修験道や神道と、お釈迦様の開いた仏教は似ていると
思うのです。
「言語以前の」渾然とした意識のあり方から、何かを知覚する瞬間、つまり分かるというのは、文字通りその「何か」を他から「分かつ」ことですよね。
名前を付けることで、区別する。言葉で表すこと即ちわかること、と言ってもいいと思います。
「分かる」「分からない」という言葉をそういう意味で捉え直すのはどうでしょうか。
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(仏教や神道のことは理解の浅い私にはなんとも言えないので、「このように禊ぎや悟りを理解したときに」…というところから考えてみました。私は仏教には自然科学というイメージがありますが、神道はそうでもないです。)