お釈迦様は6年半、荒野をさまよって修行をされました。その結果として得た悟りとは、人間も動物の一種である、しかし退化してしまったから自然の中で生きていくことができない。だから、なるべく自然を破壊することなく、わずかな衣服や食糧で生きていくのがよい。というものだと思います。


お釈迦様の体得した悟りは、所を日本に移せば、修験道や神道における禊のようなものかもしれません。文明的なものを、禊ぎ、祓い、清めて、1匹の生物になりきる。言葉のない世界を生きる。

悟りと禊ぎは、同じものだから、天台宗では今でも千日回峯行が尊ばれるし、禅宗は言語を使うなというわけです。

さて、このように禊ぎや悟りを理解したときに、言語以前の人間の心や感情と、言語が生まれた後に形成される意識とを、別々のものとして扱うことが望ましいと思います。言語以前と言語以後とをうまく言い表す言葉を教えてください。
(ひとり一回だけにしますので、ご自身の言いたいことを、要点を明確にわかりやすく書き込みお願いします。)

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言語以前:内在化=体内化、言語以後:外在化=体外化 颶風颯雷電2009/02/11 08:08:10ポイント2pt

 言語以前は、感覚も結果としての行動も、それに使う道具も、能力を体の中に内在化させていく必要があった。道具を使いこなす能力も含めて。つまり、内在化。能力の体内化

 言語以後は、それらを体の外に出していくことができるようになったし、体の外に蓄積していくこともできるようになった。つまり、外在化。能力の体外化

 仏教では、内在化志向が強いのが密教、外在化志向が強いのが顕教。

 本当はどちらも必要で、二つのやり取りの中で過ごしていくのが良いと思います。お釈迦様自体、言葉も巧みだったのではないかとスッタニパータなど原始仏教の経典を読んでいて思いますが。

我々はしゃべりすぎかもしれない ShinRai2009/02/11 08:25:46

言葉を使って表現するのは、他者に対する支配や攻撃、あるいは勧誘や誘惑であることが実に多い。

テレビの番組やCMは、ほとんど洗脳のための言葉だ。

キリスト教でも仏教でも、沈黙するという修行があったはず。

我々は沈黙することによって、分をわきまえた、正しい生き方を送ることができる。

ということなのかもしれない。

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  • 記号的言語社会 そういう世で人は生きてたりするんだとおもいます。 今日はいま織ってるブランケットででっかいミスをしました。でも5時間くらいかけてそいつを直してやりました。一
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