お釈迦様の体得した悟りは、所を日本に移せば、修験道や神道における禊のようなものかもしれません。文明的なものを、禊ぎ、祓い、清めて、1匹の生物になりきる。言葉のない世界を生きる。
悟りと禊ぎは、同じものだから、天台宗では今でも千日回峯行が尊ばれるし、禅宗は言語を使うなというわけです。
さて、このように禊ぎや悟りを理解したときに、言語以前の人間の心や感情と、言語が生まれた後に形成される意識とを、別々のものとして扱うことが望ましいと思います。言語以前と言語以後とをうまく言い表す言葉を教えてください。
(ひとり一回だけにしますので、ご自身の言いたいことを、要点を明確にわかりやすく書き込みお願いします。)
言葉を使って表現するのは、他者に対する支配や攻撃、あるいは勧誘や誘惑であることが実に多い。
テレビの番組やCMは、ほとんど洗脳のための言葉だ。
キリスト教でも仏教でも、沈黙するという修行があったはず。
我々は沈黙することによって、分をわきまえた、正しい生き方を送ることができる。
ということなのかもしれない。
言語以前は、感覚も結果としての行動も、それに使う道具も、能力を体の中に内在化させていく必要があった。道具を使いこなす能力も含めて。つまり、内在化。能力の体内化
言語以後は、それらを体の外に出していくことができるようになったし、体の外に蓄積していくこともできるようになった。つまり、外在化。能力の体外化
仏教では、内在化志向が強いのが密教、外在化志向が強いのが顕教。
本当はどちらも必要で、二つのやり取りの中で過ごしていくのが良いと思います。お釈迦様自体、言葉も巧みだったのではないかとスッタニパータなど原始仏教の経典を読んでいて思いますが。