お釈迦様は6年半、荒野をさまよって修行をされました。その結果として得た悟りとは、人間も動物の一種である、しかし退化してしまったから自然の中で生きていくことができない。だから、なるべく自然を破壊することなく、わずかな衣服や食糧で生きていくのがよい。というものだと思います。


お釈迦様の体得した悟りは、所を日本に移せば、修験道や神道における禊のようなものかもしれません。文明的なものを、禊ぎ、祓い、清めて、1匹の生物になりきる。言葉のない世界を生きる。

悟りと禊ぎは、同じものだから、天台宗では今でも千日回峯行が尊ばれるし、禅宗は言語を使うなというわけです。

さて、このように禊ぎや悟りを理解したときに、言語以前の人間の心や感情と、言語が生まれた後に形成される意識とを、別々のものとして扱うことが望ましいと思います。言語以前と言語以後とをうまく言い表す言葉を教えてください。
(ひとり一回だけにしますので、ご自身の言いたいことを、要点を明確にわかりやすく書き込みお願いします。)

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回答39件)

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悟りを意思の更に上位に考えれば nasi-goreng2009/02/12 15:43:24ポイント3pt

そのままですが、言語があってもなくても思考はされるので

 

言語以前の人間の心や感情

「非言語思考」

言語が生まれた後

「言語思考」

悟り

「超言語思考」

 

あるいは悟りは、思考さえないのかも・・・。

素直な回答をありがとうございます ShinRai2009/02/12 16:42:11

たしかにそれもありますね。

でも、いったん言語を持ってしまうと、非言語思考に戻るのが大変ではないでしょうか。

非言語思考でなければならないところに、言語思考を持ち込むと、間違った結論にたどりつかないでしょうか。

動物は悟っているのか、人間だけが悟れるのか:nasi-gorengさんからのコメントに答えて ShinRai2009/02/13 05:36:44

>すみませんおっしゃっている意味がよく分かりません。

>非言語思考→言語思考→超言語思考

>と考えた時、非言語思考に戻る場合もあると言うことですか?

 

>私は超言語思考は=非言語思考とは考えていないのですが、超言語思考が何かは悟りの境地のことなので私にはわかりません。漠然と言葉を超えたところに悟りがあるのでは?ということです。


このあたり、言語で、しかもネット上の言語で、議論をするのは、非常に難しいですが、要するにこういうことかな。

つまり、動物は悟っているのか、人間だけが悟れるのか。

言語を獲得していない動物は生まれながらにして悟っていると考えるのか、それとも、いったん言語活動を行なってからでないと悟れないのか。


天台本覚思想では、山川草木悉皆成仏といいます。

山も川も草も木もみんな悟りを開いている。

だから、生命そのものの状態は覚りである。

人間だけが言語の作用で迷いの世界に入り込んでおり、悟れていない。

もちろんこれもひとつの考え方です。

お釈迦様の考えなのですか? nasi-goreng2009/02/17 12:54:01ポイント1pt

天台本覚思想 と言うのを存じ上げませんが、この思想はお釈迦様の考え、悟りと同じなのですか?

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  • 記号的言語社会 そういう世で人は生きてたりするんだとおもいます。 今日はいま織ってるブランケットででっかいミスをしました。でも5時間くらいかけてそいつを直してやりました。一
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