お釈迦様の体得した悟りは、所を日本に移せば、修験道や神道における禊のようなものかもしれません。文明的なものを、禊ぎ、祓い、清めて、1匹の生物になりきる。言葉のない世界を生きる。
悟りと禊ぎは、同じものだから、天台宗では今でも千日回峯行が尊ばれるし、禅宗は言語を使うなというわけです。
さて、このように禊ぎや悟りを理解したときに、言語以前の人間の心や感情と、言語が生まれた後に形成される意識とを、別々のものとして扱うことが望ましいと思います。言語以前と言語以後とをうまく言い表す言葉を教えてください。
(ひとり一回だけにしますので、ご自身の言いたいことを、要点を明確にわかりやすく書き込みお願いします。)
たしかにそれもありますね。
でも、いったん言語を持ってしまうと、非言語思考に戻るのが大変ではないでしょうか。
非言語思考でなければならないところに、言語思考を持ち込むと、間違った結論にたどりつかないでしょうか。
>すみませんおっしゃっている意味がよく分かりません。
>非言語思考→言語思考→超言語思考
>と考えた時、非言語思考に戻る場合もあると言うことですか?
>私は超言語思考は=非言語思考とは考えていないのですが、超言語思考が何かは悟りの境地のことなので私にはわかりません。漠然と言葉を超えたところに悟りがあるのでは?ということです。
このあたり、言語で、しかもネット上の言語で、議論をするのは、非常に難しいですが、要するにこういうことかな。
つまり、動物は悟っているのか、人間だけが悟れるのか。
言語を獲得していない動物は生まれながらにして悟っていると考えるのか、それとも、いったん言語活動を行なってからでないと悟れないのか。
天台本覚思想では、山川草木悉皆成仏といいます。
山も川も草も木もみんな悟りを開いている。
だから、生命そのものの状態は覚りである。
人間だけが言語の作用で迷いの世界に入り込んでおり、悟れていない。
もちろんこれもひとつの考え方です。
そのままですが、言語があってもなくても思考はされるので
言語以前の人間の心や感情
「非言語思考」
言語が生まれた後
「言語思考」
悟り
「超言語思考」
あるいは悟りは、思考さえないのかも・・・。