途上国で学校を作るのは知識を得て幸せになるためですよね
1.格差が大きいから。
デジタルディバイド(スマホもパソコンも持とうと思わず、ネットをつかわない人がいる)
世代格差(そもそも老眼で液晶画面がよくみえない)
教育格差(ネット教育がある環境かどうか)
2.ネットは不幸の再生産にテコがかかる部分があるから。
不幸な事件はセンセーショナルなので広くひろまり、
それを見た人が心を痛め、ストレスを受ける。
幸福だが退屈な日常ブログは全く広まらない。
ちょっとした不幸でも注目が集まると、それは炎上だとかネット犯罪とかいわれるが、
もともと口頭だけでしゃべっていたらそれほどひろまらないことが多い。
したがって、ネットを使うのなら、炎上回避力やネットマナーが必要なのに
スマホを買うときにだれも「自分の住所以上に、ネットで人の悪口はいっちゃいけませんヨ」などと
丁寧に教えてくれない。
3.人間は肉体から離れられないから。
ネットがあれば今すぐ飲み食いできるわけではなく、
ブルーライトで不眠になったりもするし、
運動不足の成人病も、不妊症も増えているから。
結局、ネットにはある一人の人間を幸福にする要素のわずか一部(文化的)しか存在しなくて、
健康や家族や犯罪のない世の中といった基本的な幸せは、
自分の手足でつかみ取るしかない部分もまだまだ多いのだということです。
それでいうと、「発展途上国の学校」だって本人たちにしてみれば
学校いかずに手足をつかって働いていれば個人的には幸せなのに
余計なお世話だ!となるかもしれませんが、
それだけでは人を幸福にする力までは得られないので。
学習の必要性は大人になって
自分のみならず他人まで幸福にしてみようとすれば
わかるとしかいいようがないですね。
ネットって個人の不幸を共有することでみんなの幸福を増すシステムなのかもしれません。
お金持ち→心が貧しい、貧しい→心が豊か、が顕著になっているだけでしょ。
一昔前であれば、お金持ち→貧しい人の理解と支援が美徳でしたから。裕福が恵まれ過ぎて、悪い面だけ前に出ているだけです。
栄枯盛衰、少なくとも欲得で動く金持ちは近いうちに滅びます。
貧しい人→お金持ちから結果、自ら摂取へ、も同じですがw
平和をいくら唱えても唱えるだけ無駄。
貧困の撲滅とか口で言うだけなら誰でもできる。
ネットの普及で耳年増が増えて、情報中毒が増えて、馬鹿が増える。
個々の貧困を緩和するには稼げる企業が必要で、企業が成立するには教育も必要。
エネルギーや物資の最適化とか経済のバランスなどに支えられて企業は浮かぶ。
知識だけ偏重した好例が現在の日本や先進各国の少子高齢化。
人が減るのに合わせて経済が縮小する。
ネットは便利な道具だが、情報中毒を抑止できない患者を大量生産し続ける。
暇さえあればスマホでゲームやってるヤツは使えない。
子供たちの精神にネットが寄生し、そのまま役立たずの大人になる。
三段論法から弁証法へ ~ 一つの結果は、複数の理由による ~
鉱山を爆破するため、ダイナマイトを発明したら、戦争に使われた。
産業革命で(工業化が進むと)あらたな失業者を産み出した。
情報革命が(著作権によって)貧富の格差を広げている(↓)。
https://www.youtube.com/watch?v=jJhtYYo21VI(10:15)【1890】
武田 邦彦 工学 19430603 東京 /中部大学総合工学研究所特任教授
http://q.hatena.ne.jp/1459046482#c287434(20160330 19:16:20)
貧困については、どの話か分かりませんが、ミレニアムプロジェクトなど定められていましたが、驚くほど改善していないでしょうか?ネットを始とする科学技術の勝利だと思います。今の時代ほど自由に食料が手に入る時代は人類史を見てもそう多くはないと思います。縄文時代は裕福と言われますが人が圧倒的に少なく事実上の耕作面積が膨大でしたしね。また、平均寿命を見ても良い状態とは思えませんしね。
不幸な事件については、食べられるようになれば、社会権などのカロリー以外の他の自由も欲しくなったり、格差がよく見えてくるなどの話ではないでしょうか?
インターネット利用が進んだ国、学校が整備された国においても貧困は無くならず不幸な事件も存在します。
インターネットは情報の発信や共有を行うための道具であって、貧困を減らし不幸な事件を防ぐ道具ではありません。
例えば道路。道路が整備されれば物や人の流通は活発になります。
食物や資源が手に入りにくかった地域は道路の改善により、低コストでそれらを得ることが出来るようになったり、他地域へ物を輸出することが出来る様になることで、貧困が改善される可能性はありますが、同時に、外部の安い資材が入ってくることによって地元でその資材によって収入を得ていた人が貧困に陥る可能性もあります。
メリットもデメリットも考えられます。でも、道路を建設しないなら、そこが変化する可能性は発生しません。
道具の整備は可能性の拡大のために行われるのです。その可能性をどの方面で広げていくか(どの方面で潰していくか)はそれを利用する人々次第です。
貧困地域で学校を作る理由も一緒です。
学校もまた、ある程度まとまった情報の共有をするための道具であると言えます。
学校建設が貧困や不幸な事件を直接的に減少させるわけではありませんが、そこに通う人の持つ情報が増えることは、その人の人生の可能性を広げます。それによって間接的に貧困状態や不幸な事件の減少の可能性を増やすことが、学校建設の目的といえるでしょう。
道具の発達で止まるのではなく、道具をどう活用するかを考え、より良い活用を目指すことが大事なのだと思います。
コメント(3件)
ネットの情報に晒される日常は情報過多の状態。
精神のバランスを崩すヤツが増え続ける。
私には相当に関連のない2つの事柄に思える
> 出会う、学ぶ、暇をつぶす、ストレス発散
昔もできなかったわけじゃない。
確かに簡単に手に入るようことが多くなったとは思うけれども、その質も低下した。