人間が遺伝子情報として生成文法(universal grammar)をもつという考えと、統語論の関係について、どのように考えられてきたのか教えてください。
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統語論(syntax)は、主として語順(単語、節、文)にかかわるものであり、乳幼児が保護者たちの話を聞きながら自然と覚えることができる「パターン認識」に過ぎないのではないかという気がします。
つまり、あえて「論」とするに及ばない、「日本人はこういう語順で話をする」、「フランス人はこういう時には、こういった言い回しをする」といったようなものの集成かもしれないと。
それで正しいでしょうか。それで正しくない事例や考え方を教えてください。
シンタックスをめぐるさまざまな議論が、そもそも何を問題としているのかも、教えてください。
(昨日の質問を途中で終了させてしまいました、書き込みいただいたsibazyunさんありがとうございました。途中で終了させ失礼いたしました。)
sibazyunさん、ありがとうございます。
おかげでひとつ見えてきました。
歯とか、骨とか、特定臓器の問題として言語を捉えているかぎり、言語が見えてこないのではないでしょうか。
言語こそが、人間性そのものである。
言語の起源、言語システムの解明こそが、人間のすばらしさと危なっかしさの解明につながる
そんな気がしました。
誤変換失礼しました。
質問者の方が「それでよし」としようが、乗り越えようが別にかまいませんね。
「歯のこと」を研究していても、「人間」の全体像や複雑性を理解できないかもしれません。しかし、それをやる専門の歯科学とそれをやっている歯科医がいるから、われわれは歯が痛くなったら治してもらえるわけです。人間性を改名するために歯医者にかかるわけではありません。
統語論を、単純に語順といってしまうことが、統語論の7割、8割のことをカバーできるならば、それでよしとしたいと思うのは、統語論以上にもっと複雑である意味論、幼児の親和性成熟(半熟の脳の中枢神経で生まれてきて、それが生後の外部刺激によって完成される)論とか、に議論を進めたいと思うからです。
統語論や生成文法を論じていたら、言語の全体像や複雑性を理解できないのではないかと思うからです。
チョムスキーが生き延びたのは、コンピュータ言語の世界での有用性があったのでしょうか。
生身の人間にとって、チョムスキー理論はきわめて危険な思想であったのかなあとおもっています
わたしは初期のChomskian として、コンパイラなどの計算機言語学のゼミで変形生成文法をやったあとは専門的には追従していないので、心理言語学的な方面にはうといです。
ただ、Jackendoff についての印象は、「生成」を否定しているのではなく、統語論だけが「生成」の対象になっているのを意味論などにも広げようということで、これは(計算機言語学でなく)人間の言語理解には必要かと思います。それは、たとえば、日本語の「こそあど」と印欧語の指示詞(英語のthisなど)が「話し手と聞き手の間で何を意味するかについて、どうやって合意形成がはかられているか」について、共通の課題があるからと思われます。
これは、工学的な面でいえば、「ユーザインタフェースの良し悪し」ということで、例えば携帯電話の使いやすさの設計(ボタンを押す順番が固定されているということは、「構文が固定されている」ことにあたる)などにも関係してくるでしょう。
外国語を早く簡単に覚える方法という文脈でなら、統語的な変換の公式を作ることが大切だというなら、意味はありますね。
機械翻訳にも役立っているわけですね。
なるほど
ありがとうございました
ところで、弟子のジャッケンドフとその著述内容については、どう評価されますか。
こういう弟子は珍しいのでしょうか。
フィリップ・リーバーマンあたりになると、弟子として破門されたような印象を受けますが。
(1)タロウはハナコをたたいた。(2)ハナコはタロウをたたいた。
この(1)(2)はニュアンスは違いますが、同じことを言っていますね。
(3) Taro beat Hanako. (4) Hanako beat Taro.
この(3)(4)は逆の意味ですね。
これは日本語においては、助詞が格を決めるので、「名詞+助詞」という単位ごとに順番を変えても意味は変わらない例です。英語においては、(人称代名詞を除いて)格を示すマーカー(助詞、格変化など)がないので、語順が意味を変えます。
偶然見つけ、まだ出版社の宣伝用のPDFを少し読んだだけですが、、、
「1990年代に、私は、自分が言語学者になったときの専門である統語論に帰ってきた.その過程で身につけた観点から見ると、文法の中で、統語論と語彙部門の全般的な役割に対する伝統的な基本的仮定のいくつかは間違っているように思われた.」
「生成文法の伝統的な仮定がどこで言語学に道を迷わせたのだろうかと考えていくうちに、言語学が他の大部分の認知(神経)科学と次第に距離を置くようになった、本当の科学的な(数多くの個人的・政治的な理由異常の)理由を発見した.」
「伝統的な生成文法では、議論による裏づけもなしに、統語論だけが「生成的」であると仮定している.つまり、言語の組み合わせ的な複雑性は統語的な構成だけからくるとするのである.」
以上、「言語の基盤 脳・意味・文法・進化」
Foundations of Language Brain, Meaning, Grammar, Evolution
Ray Jackendoff
郡司隆男訳
岩波書店2006年より
「生成文法」と「universal grammar」(=「普遍文法」)とは同じ概念ではないですよね。
私の理解では、生成文法というのは文法を「正しい文(文法的な文)を成す法則」という観点で捉える方法論だと認識しています:それは、従前の文法論が「意味のある文に共通する法則」という観点で捉えていた事に対抗するものです。
さらに、チョムスキーのアイディアの注目すべき点は「文法的な文を成す規則があるのではなく、文法的でない文を禁止する規則がある」という発想にあると思います。そして、彼が様々な言語に於いて、その禁止の規則の多くが共通している事を見いだして「普遍文法」という考え方を提唱したのだと、私は理解しています(合ってますか?)。
その可能性は、例えば外国に行って、単語をただなんとなく並べただけでも、なんとなく意味が通じるという事からも伺えます。また、本来文法的でないはずの「倒置文」が、正しく理解できる事からも伺えます。
sibajzunさん、
> (1)タロウはハナコをたたいた。(2)ハナコはタロウをたたいた。
> この(1)(2)はニュアンスは違いますが、同じことを言っていますね。
「(2)ハナコをタロウはたたいた。」の書き間違いですね?