光秀がそんなにアホだとは・・・。いやそんなアホで信長の大人が務まってきた筈はない。ヒステリ?。。にしては公家との歌会で「天下が懐に転がってくる5月ですw」なんて歌をうたってるし。勘ぐれば勘ぐるほど諸説紛々ですし。いやいっそうつ病なんでしょう・・とかw。anywayどうしてなんでしょうか、教えてください。
なるほどどですねぇ。嫡子っていうのがポイントですよねぇ。なんにせよ、光秀はなんらかの点で追い込まれていて、彼なりになんらかのそれに対する対応を行ったってこと自体は確かでしょうからねー。お家存続論と言えば、徳川時代にはフツーの在り方だけど、織田家中の侍大将衆には無い思想かもしれないですよね。なんたって家康は「主家に対する家としての忠誠」が看板で、その時その時の家の子の「家」の党首が討ち死にしたならその嫡男をその討ち死にの返賞として取り立てるなんてことが統制理論にあるけれど、信長の家中にはそういうのは全然なくって、今「使える」ヤツを取り立てるだけだしー、、、なわけです。。。。信秀の尾張時代からしてそれが尾張地方の在り方ですしねー。そこで、光秀が嫡男以下のお家の今後の為に謀反した説、まー、光秀ってヤツは上昇志向が高くって、もともと主変えを繰り返して来たわけですし、じゃー彼がお家の存続を目的とした謀反に傾いたとしてもべつに不思議はないっていうことですよねぇ。。。
sumikeさんのURLもinterestedwなURLですよねー。
私もそうかな~って思いました。
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/hirosilk/mitsuhide.htm#1-2
このサイトの話がなかなか興味深かったです^^
光秀も高齢だったので、最後に何か残したかったのかな?
曰く、朝廷・足利義昭・秀吉と家康の共犯・イエズス会・・・etc
どれも納得できそうな部分もあれば、こじつけもあって一長一短でしたね。
ふと思ったのが、信長と家康にあって、秀吉と光秀にない(あるいは少ない)もの。
それは成長した跡取りとそれを補佐する一門ですね。
本能寺の変時、光秀は67歳で当時としては高齢。そして嫡男光慶は満14歳で戦功や功績は明らかではありません。
明智家の重臣に明智姓は何人もいますが、娘婿(明智秀満)だったり功によって姓を与えたもの(明智(溝尾)茂朝)であったりして血縁が少ないですね。
功多き重臣であっても織田家においては安心できないのは佐久間信盛の例を見ても明らか。それでもし自分の身に何かあったら、これまで築いた明智家はどうなるのだろうという焦慮に駆られたのではないでしょうかね。家名を残すことは武将にとって重要なことでしたから。
秀吉が晩年において取り付かれた明国征伐などという妄想までいかなくても、子のために自ら武家政権を打ちたてようというここで大博打を打ったというのはいかがでしょうか。今後の行く末に悩むあまり、今までの理性的な判断力を失っていたといってもいいかもしれません。
現代においても功成り名を遂げた経営者が我が子可愛さに若い頃では決してしなかったような判断ミスや愚行をしでかしますこともありますからねぇ。
明らかに別物ですもんねぇ。。。ノイローゼっていうならば、状況把握のあまりの甘さも説明できますよねぇ。
司馬遼太郎氏は「明智光秀ヒステリー説」→「明智光秀ノイローゼ説」をとっておられます。しかし、信長以降、四国九州の豪族をどう平定したか、という文献をあまりみたことがありませんね。
集まるだろう。。。と、思っていた光秀。。。でもあるかもしれない、なるほどですよねえ。となると、どうしても約束すらも無い話、絵に描いたモチ。。やっぱりヒステリ系もあるかもしれませんねー。
司馬遼太郎氏は「明智光秀ヒステリー説」をとっておられます。
たしかに丹波攻めの前に(1.善政をしいて人望を集めた領土を全てとりあげられ、丹波攻めで勝ちとった領土を与える約束をしていた、(2.波多野一族に光秀の親族がみせしめに殺され(この情報はマンガの記述によります)人生の希望を失った。
この二つの要因を考えると、天下とり云々以前に信長に対する個人的な恨みから本能寺の変をおこしたとも考えられます。光秀は一向一揆等の宗教的な要因からの戦いにつかれており波多野氏との膠着状態から抜け出し、反乱の根本的要因である(1.信長という比叡山焼き討ちの象徴、と(2.徳川家康という三河の一向一揆からの転向者を多く召抱えている人物、と戦えば自然と反信長という理念で旧家臣団がかたまるという目論見があったのではないでしょうか?