天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率い再び北近江に攻め寄せる。
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同年9月1日(9月26日)、父の久政と共に自害。
天正元年(1573年)8月8日、信長は3万を号する大軍を率いて近江に侵攻する。
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8月20日早朝、その景鏡が織田信長と通じて裏切り、賢松寺を200騎で襲撃する。ここに至って義景は遂に自害を遂げた。
一級史料と評される信長公記には天正2年(1574年)の正月、内輪の宴席において薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にした義景・久政・長政の首級を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとある。
日付が正しいとすれば、死亡後から三ヶ月は経ってます。
涼しい季節かもしれませんが、生首というか、何も処置を施さない状態で、飲み食いの席に出せるとは思えません(冷凍保存もないでしょうし)。
『信長公記』に記されているその様子。
一、古今承り及ばざる珍奇の御肴出て候て、又御酒あり。
去年、北国にて討ちとらせられ候、
一、朝倉左京太夫義景首
一、浅井下野 首
一、浅井備前 首
已上、三ッ薄濃にして公卿に居ゑ置き、御肴に出され候て御酒宴。
各ゝ御謡御遊興、千々万々目出度御存分に任せられ御悦びなり。
と、あるようですから、加工されたものであったのだと思います。