発声器官から出るのはアナログ音声ですが、50音(50音は清音だけだから、濁音・促音入れると100以上の音節)を組み合わせて、言葉(符号、記号)を作って、それをデジタル処理しませんか。デジタル処理というのは、一音・一文字違うと、意味がまるで変わるという意味。桁ごと(digit-al)に意味があるからデジタルではないでしょうか。
これが可能なのは、(1)発音するにあたっても、聞くにあたっても、区別しやすい、子音、母音、音節がある。
(2)記号である言葉を聴いて、その言葉の意味が頭の中の辞書からすっと引っ張り出してこれる高速・大容量メモリーの脳がある。
その記号の意味をあらかじめ知っていなければ、コミュニケーションが成立しないので、各人が脳内に辞書を作り、それが意味と記号の変換装置(エンコーダー/デコーダー)と作用する。
この大容量記憶デバイス(大脳新皮質)のついた高速処理コンピュータ(基底核や視床下部など辺縁系)が我々の脳であり、そのおかげで言語コミュニケーションが成り立っている。だから、チンパンジーにいくら言葉を教えても、覚えるわけがない。
オノマトペは、言葉が意味をもつ数少ない例だと思います。
そして、オノマトペを多用する日本語、日本人は、デジタル言語の陥穽から救われる可能性がもっとも高い言語を使っているといえないでしょうか。
虫の声、蝉の声と、生き物を擬人化して表現する我々には、自然と一体化する心性がまだ残っているのかもしれませんね。(角田忠信「日本人の脳」ほかの著作が参考になるかもしれません。)
http://books.livedoor.com/search/&type=author&word=%B3%D1%C5%C4+...
たとえば、日本語では、猫の鳴き声をニャーか、それでなくても、ニャオ、ニャーゴなどの数種類の決まった「五十音の組み合わせ」でしか表現しません。英語なら、miaw, miaaw などの数種類の「アルファベットの組み合わせ」です。実際の猫の鳴き声がアナログなのに対して、デジタルというか、離散化して表現しています。
ニャンニャン、ニャーニャー、ゴロニャン、ニャオというのも、猫の気持ちを離散化して表現しているということですか。
そういわれると、そんな気もしますが、ニャンニャンを牛の鳴き声や犬のほえ声だと思う人はいませんよね。
ニャンニャン自体に、猫らしさが現れているところが、記号論的な言語ではないということになりませんか。
たとえば、雨がパラパラ降っているのと、ザァザァ降っているのと、どちらがたくさん降っているかわかりますよね。
コロコロ転がすのと、ゴロゴロ転がすので、どちらが重たいか、わかりますよね。
記号的ではない言語です。コロコロと、コロンコロン、カランコロン、それぞれに意味がありますよね。
すみません、またわからなくなったのですが、「記号論的な言語」とか「記号的ではない言語」とかいう場合の「記号」というのは何を意味して使っておられますか? というか、「記号論」とはどういうものかを踏まえて「記号論的な」という言葉を使っておられますか? 少なくとも、ShinRaiさんのお使いの「記号」はこのへん↓でいう「記号」とは違いますよね……。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%98%E5%8F%B7%E5%AD%A6
http://en.wikipedia.org/wiki/Semiotics
http://www.nulptyx.com/semio.html
で、その「記号」と「デジタル/アナログ」はどう関係しているのでしょう。
それと、擬音語の「意味」という場合の「意味」とは何でしょうか。シニフィエ? シニフィエを持つものが「記号的ではない言語」というのは、私にはさっぱりわからないのですが。
私の説明が悪くてすみません、それにしても定義やら難しいですね、言語学は。
記号言語というのは、シニフィアンは、なんでもいい。お互いにシニフィエをあらわすものが何であるかを知っていたら、どのようなシニフィアンをもってきてもいいという意味でいいました。
記号言語でないというのは、音自体が意味をもっているので、雨がざぁざぁ降っているときに、パラパラ降っているねといえないような場合です。
カラカラと笑ったときに、ゲハゲハ笑ったといっても聞いた人には通じないでしょ。
記号言語の特徴は、語る者と、聞く者の間に、共通の記号解読表があるということです。
お匙のことを、英語圏では、スプーンといい、フランス語圏ではキュイエールといいますが、これは語圏の中では決まりごとになっているから、スプーンといえば英語圏の人はお匙のことを思うのです。
オノマトペに記号性が皆無とはいいません。言葉によっても、記号性があるものもあれば(客席はガラガラだったというのが、たくさんいるのか、少ししかいないのか、はじめて聞く人にはわからないかもしれません)、ズシンズシン、ドッカンドッカン、ポリポリみたいに、それだけで動作が想像しやすいものもあります。
しかし、赤ちゃんがハイハイしているのを、どっかんどっかんと形容したときに、日本語を知らない人でも、なんか変だなと思うのではないでしょうか。
このことをもって、純粋な記号とはいえないと思うのです。それを、言葉自体が意味をもつといっています。
> それにしても定義やら難しいですね、言語学は。
言語学に限らず、用語を正確に使うことは議論の大前提ですよ。会社のミーティングでだって、自分が独自に考えて定義した用語については、議論を始める前に必ず定義を説明します。誰かが勝手に、あるいは勘違いして誤ったふうに、ある用語を使っていれば、話は通じなくなります。
で、今度は「記号言語」ですか……ほんと、用語についてもっと神経使ったほうが、話がスムーズに進みますよ。まず、「記号論的な言語」とか「記号的(ではない)言語」もこの「記号言語」と同じですか?
また、ShinRaiさんの記述を拝読するに、この「記号言語」は数理論理学でいう「記号言語」ではないのですよね。
> 記号言語というのは、シニフィアンは、なんでもいい。お互いにシニフィエをあらわすものが何であるかを知っていたら、どのようなシニフィアンをもってきてもいいという意味でいいました。
例えば「お匙」を英語でspoonと言うが、それはそもそもsleepであってもbaloonであってもよさそうだったのに、spoonということになっていて、「あれのことはspoonと呼ぶ、spoonといえばあれのこと」というのが共有されている、ということについて、「記号言語」とは言わないです(しつこくてすみません)。「記号論的な言語」とか「記号的言語」と言うことはあるのかもしれませんが、一般に通じる用語法かというと……。そもそも「記号論」をどうとらえておられるのかがわからないので何ともいえないものがあります。
> このことをもって、純粋な記号とはいえないと思うのです。それを、言葉自体が意味をもつといっています。
おっしゃりたいことは何となくわかるような気がします。しかし、こんなことを書くのは申し訳ないのですが、言語を語るには記述があまりに不正確で、「わかります」とか「同感します」とはいえません。
論理展開も無茶苦茶です。「記号である」が地すべり的に「純粋な記号である」に置き換えられて、「純粋な記号とはいえない」から「記号(ShinRaiさんの用語では『記号言語』)ではない」に展開していますが、その「純粋な」ってのはどっから出てきたんですか? そもそも「記号」をどのような意味で使っておられますか? 「純粋な記号」は、例えば手帳に書き込むマーク(給料日はコイン、デートの日はハート、試験の日は本、など)や、標識のピクトグラムの類、ウェブページのアイコンなどとしてはありますが、それらはここで議題となっているような「言語」でしょうか。
> カラカラと笑ったときに、ゲハゲハ笑ったといっても聞いた人には通じないでしょ。
「通じ」なくはないですよ。「誤解される」だけで。「彼はカラカラと笑った」を「彼はざあざあと笑った」とか「彼はしとしとと笑った」と言えば「通じ」ませんが、それは「ざあざあと」や「しとしとと」が「笑う」とつながらない(意味を成さない)からです。それは「言葉自体の意味」や、ましてや「音の意味」とは関係ありません。
「雨がざぁざぁ降っているときに、パラパラ降っているねといえない」のは、「ざぁざぁ」という擬音語が指し示す様態と、「パラパラ」という擬音語が指し示す様態とが一致していないからではないでしょうか。擬音語ですから、それらはもちろん「(言語ではない)音」を言語化しています。しかしそれは「音」に「意味」があることを意味しない。「雨がざぁざぁ降っているとき」に、「ざぁざぁ」を「パラパラ」に置き換えられないのはその通りですが、それは指し示している様態が違うからです。降っているのが雨である場合は、「雨」と「ひょう」でも置き換え不可能です。ナンセンス文になりたくなければ、「降っている」を「売っている」に置き換えることもできません。
オノマトペについては、例えば英語ではpourという動詞で表すものを、日本語では「ざあざあ」という擬音語で表すのはなぜか、といった検討はできるかもしれません。しかし、『「ざあざあ」は(言語学でいう)「記号」ではない、なぜなら私たちは「スプーン」のことを「バスーン」と呼ぶことに変えることはできても、音を写した「ざあざあ」を「しとしと」に変えることはできないのだ』と主張することは、ナンセンスです。なぜなら「ざあざあ」で表されている様態が「しとしと」ではないのと同様に、「スプーン」で表されている物体は「バスーン」と呼ばれる物体ではないからです。(※ここ、あえて意図的に論理展開を真似して詭弁にしてあります。)
あと、「擬音語は音を写し取ったものであり、擬音語は音自体が語なのだ」という主張(ですよね?)は、トートロジー以外のなにものでもありません。
会話の中の擬音についてはいかがですか。