したがって、コミュニケーションがうまく成立するためには、集団内部で信頼や共感があること、できるだけ言葉の意味や定義を共通化すること、誠実な心でできるだけ正しい言葉を使うことが求められる。
逆に、言葉の定義が不ぞろいなまま会話や議論をしたり、あるいは意図的に人を騙したり欺いたり、嘘をついたり、勘違いさせる表現を使うことは、人間の心を荒廃させ、言語に対する信用を失墜させ、人類社会を虚無的(ニヒル)な社会へと堕落させることになる。
今日の文明の閉塞感や社会の希望のなさは、言語に対する信頼が失われたためであるということもできるであろう。
皆様はどうお考えになりますか。
確かに、言葉の意味(定義)をお互いが理解し合っていいないと、思っていることの伝達に違いが出るのは当然ですね。でも、たとえ違う言葉の概念を持っている人たちと接して、交流していけば自分と相手の間には徐々に言葉の信頼が生まれると私は思います。まぁ、些細なことから喧嘩になる場合もありますが、すべてではないでしょう。だから、"言葉の定義が不ぞろいなまま会話や議論をしたり"して社会がどうのとかにはならないと思ってます。
"今日の文明の閉塞感や社会の希望のなさ"については、言葉の信頼からうけるものでなく、テレビ局、マスコミ各社の報道、また物価の値上がりなどから受ける生活、経済不安から、人を楽観的に信用できなくなっているためというのはどうでしょうか。