お釈迦様の体得した悟りは、所を日本に移せば、修験道や神道における禊のようなものかもしれません。文明的なものを、禊ぎ、祓い、清めて、1匹の生物になりきる。言葉のない世界を生きる。
悟りと禊ぎは、同じものだから、天台宗では今でも千日回峯行が尊ばれるし、禅宗は言語を使うなというわけです。
さて、このように禊ぎや悟りを理解したときに、言語以前の人間の心や感情と、言語が生まれた後に形成される意識とを、別々のものとして扱うことが望ましいと思います。言語以前と言語以後とをうまく言い表す言葉を教えてください。
(ひとり一回だけにしますので、ご自身の言いたいことを、要点を明確にわかりやすく書き込みお願いします。)
動物であるのに、自然の中では生きていけず、文明を作って暮らしている人間存在の不自然さについて悟りを開かれたお釈迦様は、お亡くなりになるときに、墓もいらない、葬式もするなと言い遺されたそうです。
葬式仏教に堕している日本のほぼすべての仏教宗派とは、違ったことをお釈迦様は説かれたわけです。
これは、お釈迦様は悟っていたけれども、日本のほぼすべての仏教宗派は、悟りに達していないということを意味するのでしょうか。
難しい問題ですね。