実際に飛び降り自殺をする前に靴を脱ぐ人がいないわけではありません。
http://shinagawa-lunch.blog.so-net.ne.jp/2008-04-21-6
じゃぁ何故靴を脱いだのかということについては、正直申し上げて自殺した人に直接お尋ねになるしかないというのが残念なところでしょう。
私がよく聞くのは船から海への投身自殺の場合で、死体が発見されないと困るといったケースですね。保険金がらみといったことです。
実際の犯罪史においても「カクタホテル殺人事件」の主犯和泉が逃走中に捜査の目を誤魔化すために船に靴を脱いでといったことを行っています。
これまでの回答の幾つかに反論を申し上げますと、コナンで言っていたってあれは漫画ですよ。それも子供向けの。実際には不可能な犯罪だって可能にしていますよ。特に毒殺なんかは。
自殺する人は止めて欲しいと願っているからというのも眉唾物です。靴を脱ぐという行為は後戻りしないという決意の表れの場合が多いんです。これは自殺ではありませんが強姦目的で山中に連れ込まれた女性が下着まで脱いだものの靴だけは履いたままにしておいて、犯人の隙を突いて逃げたというケースもあります。止めて貰うとして靴を履いていなければ、歩くことは出来ませんからね。生きたいと本音では願っているのなら別の行動に出るはずです。知り合いに予告の電話をする、目立つビルの屋上でしばらく躊躇しているフリをする。
犯罪者にしろ、自殺願望者にしろ行動は異常でも合理性はあるものです。
リンク先にもある通り、投身自殺の前に靴を脱ぐのは日本の場合、家に入る際には靴を脱ぐ習慣があり、天国という家に入るといった考えに基づくものと推測されます。
ご参考までに「日本人の自殺者はなぜ履物を脱ぎそろえるのか?」という点について、川部裕幸氏が歴史民俗学19号で小論文を書かれているようです。
自殺する日本人はなぜ履物を脱ぎ揃えるのか?: 詩集 お母さん、いまどこにおられますか? がんばろう日本
アメリカ映画「ブリッジ」(2007年6月公開)はサンフランシスコのゴールデンブリッジから飛び降り自殺なさる人を実写で撮り続けたドキュメント映画でしたが、ああ、アメリカ人もたくさん絶望自殺をなさるのだと認識をあらたにし(撮影中の1年間で24人がこのブリッジ66メートルの高さから海面に飛び込んだ)、さらに、ああ、アメリカの人は履いていた靴を脱いでそろえてから舞い降りる方は一人もいないのだと感心しました。
感心、といっても誉めて称えているのではなくて、ぼくたち日本人の基本的なメンタリティーとの部分的な差異を思い知った次第でした。一人も靴を脱ぎそろえた人はいなかったのです、一人も。履物に遺書を置き残すという所作もないようでした。一人も。
では、なぜ日本人自殺者は履物を脱ぎそろえるのでしょうか。川部裕幸氏(成城大学民俗学研究所)が:自殺の作法?〈履物を脱ぐ〉をめぐって:と題して歴史民俗学19号(2001年3月)で小論文を寄稿されています。文献的には井原西鶴「好色五人女」(1687年)や「太平記」(14世紀中頃)「源平盛衰記」(14世紀後半)などに履きものを脱いでの自殺描写があるそうです。詳しくは同論文をごらんいただくとして、なぜ? の疑問に川部氏は次のように述べておられます。
・自殺以外に日本人はどういうときに履物を脱ぐのか考えてみる。四つの場合がある。1・和風家屋に上がるとき、2・畳の部屋に入るとき、3・宗教的行為としての脱履、裸足、4・礼装として素足、である。・・・・
・そこに共通して見て取れるものは、大切な場所(ウチ)、神聖な場あるいは上位の空間および人に対しては、裸足で接すべしという、日本人の感性的規範である。感性的規範とは、感覚的直感に基づいて、その時その場にふさわしい行為を命じる心の声であり、その感性は、幼年期からの躾や身の回りの様々な見聞によって、知らず知らずのうちに育まれてきたものである。
また、民族学の用語で言えば、日本人には、ハレの領域に入るとき、あるいはハレなるものに接するとき、履物は脱ぐべきという作法があった。すなわち、ケからハレへの移行儀礼の一端として、、<履物を脱ぐ><裸足になる>という作法があったという言い方も可能であろう。
・自殺とは自らを、この世からあの世へ、生の領域から死の領域へと移すことである。そして人は自らの死に臨んで、当然、粛然たる気分になり、それにふさわしい「装い」と「所作」すなわち儀式を自演する。あの世への移行儀礼。日本人の場合それが、<履物を脱ぐ>という儀式であった。
ご参考になれば幸いです。
先入観だそうです。
アニメとかで飛び降り自殺のシーンがあったとして、下を映さなくても飛び降りた事がわかるからと考えます。